『私のように黒い夜』"BLACK LIKE ME" by John Howard Griffin J・H・グリフィン著 平井イサク訳 Translated by Hirai Isaku ブルース・インターアクションズ版 blues interactions, inc.Edition 読了

今は亡きビッグコミックオリジナルコラムで大江健三郎万延元年のフットボール』が紹介されていたので読み*1、流れで『個人的な体験』も読み*2巻末広告に出ていた安部公房『けものたちは故郷をめざす』を読んで*3、そのつながりで五木寛之『青年は荒野をめざす』を読んで*4、その植草甚一解説に出てくるナット・ヘントフ『ジャズ・カントリー』を読み*5、作中黒人に憧れる白人少年にクラスメートが「こういう方法もあるぜ」と示したのが本書の方法でしたので読みました。

頁304 右の白人サン(テキサス人)が薬品等で左の外見の黒人サンになることに成功し、それで1959年、黒人分離政策下に在った合衆国南部を旅したルポです。

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SEARCHING FOR THE TRUTH HE FOUND IT WHITE MAN EXPERIENCES LIFE AS A NEGRO IN THE DEEP SOUTH

同 この雑誌に連載されたそうです。

画像検索で出てくる、黒いグリフィンサンの写真は、ほとんど白人カメラマンにニューオリンズで撮ってもらった写真だそうで、ちゃんと撮ると白人からも黒人からも悪い意味でストリートの注目を集めてしまうので、自然に撮られるのが大変だったとか。事前に打ち合わせて、グリフィンサンがそのへんをぶらぶらしているその横のお店の人なんかを、「その表情いただき!」みたいな感じでカメラマンが撮って、グリフィンサンを撮ってることに気づかせないというテクを使ったそうです。

頁228

 ある日、私たちは予期していなかった助けを得ることができた。ラトリッジはフレンチ・マーケットの果物屋に(略)すると、その女がいったのだ。「急いで、あそこにいる妙ちくりんな黒ン坊の写真を撮りなさいよ。出ていっちゃわないうちに」

巨体だし、カジュアルでないカッコで市場に來るし、サングラスだしで、目立つ目立つ。

私のように黒い夜 - Wikipedia

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ジョン・ハワード・グリフィン - Wikipedia

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タイトルは米国詩人ラングストン・ヒューズの『夢の変奏曲』"Dream Variations" by Langston Hughes の一文から。

本書冒頭

 朧な夕暮れの憩……

高く ほっそりとした木……

  夜がやさしくやってくる

 私のように黒い夜が

原文

Rest at pale evening . . .
A tall, slim tree . . .
Night coming tenderly
    Black like me.

Dream Variations by Langston Hughes - Poems | Academy of American Poets

本書は何度も版を重ねており、読んだのは2004年版を底本としたブルース・インターアクションズ版で、その出版社は現在Pヴァインという社名になっています。

会社概要 – P-VINE, Inc.

訳者あとがきによると、平井イサクさんは1967年の至誠堂版を全面的に改訳したとか。で、その翌年おなくなりになってるんですね。合掌。

平井イサク - Wikipedia

正直、肌の色が変わるだけで、ここまで黒人の外見になれるとは想像してませんでした。

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映画化されたのでその予告も見ましたが、やはり靴墨を塗っただけに見え、それは何故かというとサングラスして目を隠してないからだと思いました。目には人種的特徴が出る、のはアーモンドアイとよく言われるオリエンタルにもよく理解されてること。グリフィンサンはサングラスで目を隠し、頭髪はパンチパーマではなく剃る方向で解決。皮膚の色を変える薬品については、ウィキペディアによると、グリフィンサンの死因は糖尿病だったにもかかわらず、巷間その薬の副作用のガンであるとまことしやかに信じられていたとか。

当時のU.S.Aは下記のまっただなかで、公衆便所は黒人用のところに行かねばならないので、いちいち場所を聞いて、それがまた遠かったりで、それがいちばん日常的に困る点だったそうです。

アフリカ系アメリカ人公民権運動 - Wikipedia

黒人取締法

黒人分離政策

水飲み場やコーヒースタンドも分離されてますが、生理的欲求ほど喫緊の課題ではないので、そこまで切迫感はないです。トイレがいちばん問題。数が限られてて、遠い。ただ、どこも簡素だが清潔だったそうです。掃除人がちゃんと掃除してる。パーフェクトデイズ。

で、そのトイレに行くと、ある種の性癖の白人が黒人買春の価格と連絡先(自分が買いたい年齢を二十歳ゼロ円からスタートして、年が下がるほど価格があがる一覧表。十九歳が二ドルで、十四歳七ドル五十セントで終わってます。14歳で終わってよかったと思うか、14歳まで行くのかよと思うか。まあ後者かな。1960年1959年の物価。頁131)の貼紙をしていて、それを貼った白人以外、ふつうの白人は黒人用トイレに出入りしないので、そういう貼紙があることを知らない。黒人はそれを白人に話さないし、話しても本気にしてもらえない、あるいは話して白人はピンと来てもそれを隠すと思ってる。

グリフィンサンは、トイレの欲求を果たそうとするたび、徒労とげんなり感にとらわれ、これと同じものを米国の有色人種がみな感じているんだなと思ったとか。グリフィンサンはヒッチハイクを何度もしてますが、マイカー所有者は白人が多いのでイキオイ乗せてくれる人も白人で、暴力に遭うことはないのですが、車内はプライベート空間ですので、性的なトークばかりされたそうです。別に同性愛的なことではなく、ただ単に卑猥な話。黒人男性は絶倫ですごいんだよねとか、俺は黒人の女と何人ヤッたとか。猥談に乗らないグリフィンサンはおろされるわけですが、そうするとさびしい街道沿いの白人店舗は冷たかったそうです。お金は受け取るので商品を売ってはくれるわけですが、商売につきものの愛想とかそういうのがアレだったとか。

白人男性の態度は上のごとしで、黒人女性に來るヤカラもいるわけなのですが、白人女性の態度はだからかどうか、ヒステリックなものが多く、近寄らないで私を見ないで、で、白人女性をじろじろ見てはいけないと、黒人になった初日にグリフィンサンは学習します。バスで隣の席が空いていて白人女性が吊革につかまっていても、よかったら隣どうぞという言い方をしてはいけない。自分も立って、空っぽの席に座ってもらうのでなければならない。映画のその場面のキリトリ動画は予告編と銘打ってるので、間違えて見てしまいました。なんともかんとも。

グリフィンサンはこういう潜入ルポをするくらいですから、やっぱりそれなりの人生を歩んできていて、まずアメリカの高校に行ってません。フランスの高校に行ってます。で、クラスメートにアフリカ人がいて、学食でふつうに同じテーブルに座ってくるので、グリフィンサンは彼をひっぱたこうかと思うのですが、フランス人は「なんで? ふつうじゃん」みたいな感じで、そこで思春期のグリフィンサンは、アメリカンスタンダードはグローバルスタンダードではないんだと愕然とします。

さらにふつうでない経験として、グリフィンサンは第二次世界大戦に従軍して、何かの衝撃で打ったはずみで失明し、目の不自由な人として過ごすのですが、戦後のある日、はっきりした理由もなく(視神経がつながったのかもしれません)、また目が見えるようになります。この二つの経験が、彼を公民権運動を反対側から眺めようとした意識づけになったのだろうと私も思います。故伊集院静サンは「またふつうに飲めるようになった」珍しいアル中ですが、どっちが稀有なのか。

上にあげた洋書は本書の元テキストの2004年版よりさらにあとの2010年版らしく、本書は再版されるたび、その間にグリフィンサンらに起こったこと(KKK絡みとか)と識者の序言や解説が追記されます。1976、1979、2004… 当初は圧倒的に支持されるのですが、時間が経つにつれ、村八分からシャーリー・ジャクソン『くじ』状態となり、脅迫される「かもしれない」もっとひどい目に「遭うかもしれない」状態から、自分も両親も住処を売り払って遠方へ引っ越しする描写は、映画版のブラッククランズマン*6のエンディングに似ています。漠然とした不安だけが高まってゆく。で、解説に関しては、たとえば、下記。

頁321 「あとがき――2004年」ロバート・ボナッツィ

(略)多くの批判的な人々は〝ブラック・パワー〟を、黒人による人種差別と見ていた。

 しかし、黒人は白人をリンチしたことがないし、白人の教会に爆弾を仕掛けたこともないので、この見方は間違っている。カーマイケルにいわせると、(略)〝人種差別が問題になるのは、考えを実行に移す力が伴った時だけ〟だからである。人種差別主義者の態度は、差別される側に不快感を与えることはあっても、処罰を受けずに、黒人を傷つけたり、殺す力を伴わない限り、そういう態度は個人の問題といえるのだ。肌の色や考え方が違うというだけで、殺したり、傷つけたりしても、処罰を受けずにすむということになると、警察国家(略)そういう国がいくつかあるのだ。

Robert Bonazzi | World Literature Today

これが学校内で処罰されないということだと「イジメ」になるのかなあと思ったり思わなかったり。上のはストークリー・カーマイケル、のちのクワメ・トゥーレサンの考えらしいので、「思うだけでダメ」「賛同せずとも黙認のサイレントマジョリティーもギルティや」などの異論もあると思います。この解説によると、グレース・ハルセルという白人女性も黒人のメイドに扮して今度は北部の黒人居住区の実態を探って『ソウル・シスター』という本を出したそうで、英語版ウィキペディアを見ると、彼女も同じ薬品に頼って、彼女は2000年多発性骨髄腫でおなくなりになっています。彼女は湾岸戦争やらなんやらにも対応されていたので、劣化ウラン弾かもしれない、と思うは自由。

archive.org

Grace Halsell - Wikipedia

しかしほんと、骨格骨相等はまったく変わらないのに、なぜ色を変えるだけでこんなに寄せてこれるのか。根本敬の本に載ってるホワイトニグロはアルピノなので違いますし、白人として生きたカラードの話は、バルザックの昔からよくまとめられてると思いますが、そういう話ではないと思う。本書の中でも代々農場主が奴隷に「おてつき」してメルティングポットの話があり(だからアフリカ系アメリカ人はアフリカ人と外見的にどんどん離れていく)(「ルーツ」*7のクンタ・キンテサンも、娘の代でもうレイプされて三代目は白人とのダブル)パパやダーリンが黒人女性に対してそうだったら絶対イヤ、汚らわしいと思う白人女性心理がブラザーに向かって、見つめることすらダメという話になるというふうにもうまくまとまってしまうのですが、それにしても。シャネルズの画像検索して、靴墨塗ってるだけに見える人と、ブラザーに見える人とふたとおりいるなあなんて思うくらい動転しました。

ボードビリアンや役者さんが別の人種民族を演じることはたしかコレクトでないとされていて、むかしはパール・バック『大地』の映画の中国人もぜんぶ白人が演じてたり、80年代にカンボジア虐殺を描いた「キリング・フィールド」でも中国系やベトナム系がクメール人を演じてたりして、それがアカンということになったわけですが(「キル・ビル」のルーシー・リウが日本人役でなく日中ダブルという設定の役だったのも、そういう流れなのかなあ)最近はそれがLGBTQにも拡大されて、ただそこはまだ論争状態で(LGBTQの役はLGBTQそれぞれの役者が演じなければならないということになると人が少ないので独占状態になったりなんだりの問題も起こるとかどうとか)日本ではミッドナイト・スワンで草彅剛の人が演じてたのが記憶に新しいですし、さかなクンをのんが演じてたのはもっと記憶に新しい。という話は脱線。

違う人種を演じてはいけない、というか、コスプレしてはいけない、という理由として、すっごく似てしまう場合があるから、が存在するとは今まで全く考えたこともありませんでした。肌の色だけでなく、彫の深さとか髪質とか目の色とか、骨格骨相そのほかでどうしたって無理があると思っていたので。しかしこうも簡単にくつがえされるとは。白人が松本零士キャラのコスプレするとすっごくサマになるのとはわけがちがう。それで云うと、今はコンピュータグラフィックスがありますから、発がんの危険をおかすことなくなんぼでもデジタル処理でちがう肌の色になれるし、頭髪も目の色も変われるわけなので、ちがう人種のアバターなんていくらでもあるかなと思う反面、倫理を遵守する人もまた多いだろうと思います。オッサンを女子にするアプリがあるんだから、ちがう人種にするアプリもあるんでしょうが、唇等の各パーツや骨格骨相迄デジタル処理で変えてしまうとそれはまた違う話。肌の色だけでどれだけ寄せれるか。思えば、マイケル・ジャクソンも整形なしでボブ・マーレーなみの彫の深さだったら、あんなに薬物に耽溺しなかったのではないでしょうか。彼は踊らなければいけなかったのですが、落ち着いた後で、Adoのようにアバターだけで勝負する人生も21世紀ならアリだったかもしれない。

頁067に「とうもろこし」と書いて「玉葱」とルビが振られている誤植がありました。

冒頭、ニューオリンズで靴磨き修業する場面のあとくらい。この辺はつかみなので、水の補給や現場の食事など、かなりインパクトがあります。また、グリフィンサンは身なりがキチンとしていて、話し方もインテリなので、遊び人の男に苦労ばかりさせられている黒人中年女性から秋波を送られる場面もあります。そういえば黄昏流星群(最新刊71巻)で黒人女性と付き合う話あったかな。島耕作はご存知のとおり黒人ともつきあったし(と思いますが模造記憶かな?)娘のパートナーはアフリカ系アメリカ人です。

頁114にミシシッピ州歌が出るのですが、今は歌詞が違うようで、ここに書いてある邦訳を英語にして検索しましたが、何も出ませんでした。この歌詞を聴いていると黒人ギャルソンが配るミント・ジュレップや南部の優雅な生活が思い起こされるそうで、ミント・ジュレップその頃からあったんだと思いました。

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下記はルイジアナを歌ってるのでミシシッピではなさそう。

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グリフィンサンは後天的に黒人になったので、そのストレスにどんどん耐えられなくなります。その辺の心理状態、追い詰められ方もすごい。白人にもどればラクになれるので、すきあらば戻ろうとするようになる。すごい本です。ビジュアルインパクトが。

そういえば、ブラック・ジャックにも白いライオンにねたばれメラニン色素を注射してふつうのライオンにする話がありましたが、この薬品でなくてヨカッタデス。

www.akitashoten.co.jp

www.kinnohoshi.co.jp

頁172は、アンクル・トム的ではないのでしょうが、神に日々感謝してまじめに働く黒人が、白人ブルジョワに借金で縛られ、貧困から抜け出せないさまが描かれます。そういう世帯、若い夫婦に六人の子ども、の家で一夜の宿をめぐんでもらう。それでやけっぱちになったり自暴自棄になったりすると、ほら見たことか彼らはなまけもので向上心がないという定説が補強される。賃上げストをしたらどうかとグリフィンサンは提案しますが(こういう潜入だからのちに南部人からいやがらせされ、危害を加えられる)かわりはいくらでもいるとレイオフされるのみならず、近所の商業従事者はみんな白人で仲間なので、日用品のツケ購入を断られて日干しになると返答されます。働けど働けど我が暮らし楽にならざり。じっと手を見る。⇒初版後の追記で、のちに南部の黒人が結束してまずやったのが、資金を集めて金融機関、銀行を作り、宅地開発など様々な用途に融資することだったとか。

手といえば、グリフィンサンは靴磨き修業の初日、親方に、黒人としてどっかおかしいところはないか見てもらい、手の甲のうぶげが金色?なので、剃って来いと即答されます。黒人はスベスベという話だったかな。銭湯で胸毛のある黒人サン見たことあるので、体毛はこれもいろいろだとは思います。でもブロンド?のうぶげじゃないんだろう。

ボブ・マーリーと関連あるか知りませんが、頁219によると、アトランタの白人市民協議会会員のあいだでは、「ラスタス」は「ニガー」と並ぶ蔑称だったとか。その後、ラスタファイの意味をボブ・マーリーが革命的に変えたのか、別の単語なのか、分かりません。今ふっと思ったのですが、かねがねなんでボブ・マーリーは黒人最後の君主、エチオピアのハイレ・セラシェ*8サンを尊敬していたのか、奴隷は西アフリカの人が多いのになんで東アフリカのエチオピアなのか、で、「ほかにいないから」というじゅうらいの理由以外に、「奴隷を売った側を尊敬出来ないから」もあるのかな、と思いました。

いろんな少数民族の本を読んで来ましたが、数字としてはマレーシアの華人とマレー人、スリランカのシンハラ人とタミル人くらい拮抗してるわりに、言語がまったく完全に通じる、同一言語の二つのエスニックグループというのは初めてでした。(エボニクスとかそういう話は置いといて)言語が完全に通じるということは、たとえばアイルランドだったりすると、誰がカソリックで誰が英国国教会か分からないわけですが、GDP世界一位のこの國では、口を開かずとも一目瞭然という。そんなことがあるんだなあというか、言われてみれば灯台下暗しというか。

以上