『個人的な体験』"A Personal matter" by Ōe Kenzaburō 大江健三郎著(新潮文庫)<SHINCHO BUNKO> 読了

大江健三郎サンの『万延元年のフットボール*1が、今はなきビッグコミックオリジナルのオリジナルコラムで、地元商店街しかなかった寒村に突如現れた在日コリアンオーナーのスーパーマーケットに対決して敗れる四国の青年たちの物語として紹介されていて、そんな話なら読んでみるかと読んでみて、そこの解説で、『日常生活の冒険』*2『個人的な体験』『レインツリーを聴く女たち』を読まないと本書は語れないと書いてあり、その書き方が、この三作も読んだらエモさ百倍、やったねパパ明日はホームランだ!エモさ爆発カメラのさく~らや~、と書いてあったのか、旧世代オタクに典型的な否定から入る知識開陳芸、読まないで語るなんてバカなの? タヒぬの? ry 草生えると嘲笑してたのかは忘れましたが、順次読もうと考え、これも読みました。

私が読んだ判は表紙が異なります。下記の表紙。

わが子が頭部に異常をそなえて生れてきたと知らされて、アフリカへの冒険旅行を夢みていた鳥バードは、深甚な恐怖感に囚われた。嬰児の死を願って火見子と性の逸楽に耽ける背徳と絶望の日々・・・・・・。狂気の淵に瀕した現代人に、再生の希望はあるのか? 暗澹たる地獄廻りの果てに自らの運命を引き受けるに至った青年の魂の遍歴を描破して、大江文学の新展開を告知した記念碑的な書下ろし長編。

カバー 山下菊二 デザイン 新潮社装幀室

読んだのは平成七年(1995年。バブリー!)五月の二十五刷。みんな読みますね。というか、読もうと思う。

個人的な体験 - Wikipedia

日本語版のサマリより、英語版のが簡潔です。しかしそれは、キリスト教社会のがダブルアスタリスク以降にエンパシーがあるからではなく。

A Personal Matter - Wikipedia

It tells the story of a young father who must come to terms with the fact that his newborn son is severely mentally disabled.

(グーグル翻訳)

この作品は、生まれたばかりの息子が重度の知的障害を持っているという事実を受け入れなければならない若い父親の物語です。

英訳を出版したグローヴ・プレス社の社主は山岡否オーエサンに対し、ダブルアスタリスク以降を削ってはどうかと問うたとか。その人は、チャタレイ夫人の恋人ホキ徳田宿六の解禁に尽力した、開明的な人物だったそうで、そうすると逆にそうなるのかもしれません。先駆的ウォーク。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/2/23/Kojinteki_na_taiken_%28%C5%8Ce_Kenzabur%C5%8D%29.png左は英語版ウィキペディアに載っていた、昭和三十九年に、最初に出た、新潮社単行本表紙。

子どもに障害があると分かった時、インテリほど脆い、と、学校の教育学のセンセイが未来に親になるであろう学生たち(そうでない人もいますが)に語っていましたが、光君のお父さんというと、どうしてもそれを思い出さずにはいられません。本書は解説がなく、オーエサン本人の《かつてあじわったことのない深甚な恐怖感が鳥バードをとらえた。》という題のあとがきが収録されています。そこではダブルアスタリスク以降の描写に対して集中的に批判を受けたとあり、その詳細は日本語版ウィキペディアで読めます。ようするに背徳的虚無的な結末が時代の希求する善であり、こんな明るい優等生的なビルドゥングス・ロマン、教養小説的結末は誰も求めていないという批判。しかし、そうでしょうか? 河上徹太郎だけ本書に全面的に賛辞を寄せたそうで、河上徹太郎サンといえば酒にまつわる吉田ケニチ先生作品の常連キャラでもあり、酒害といえば、今のアルコール飲料には必ず飲酒が乳児胎児に与える影響を書くよう義務付けられているわけで、あいだをすっ飛ばしますが、河上徹太郎サンがこの結末をよしとしたのは、私にはとてもよく分かる気がします。

《かつてあじわったことのない深甚な恐怖感が鳥バードをとらえた。》私はインテリでなく、インテリもどき乞食ですが、自分が立っているという感覚がなくなったり、ふつうに歩けているのがふしぎなくらいのあの感覚は、いまでもありありと思い出せます。京都の夏の日差しが照らしていて、左京区の下り坂道だった。

こういう自助グループもあるそうで、しかしけっきょくは、自分の体験したことは自分だけの体験で、同じ境遇の人間はひとりもいない、という結論に辿り着いたという人の話を聞いたことがあります。しかし、それを知ることは逆によかったと。"A Indivisual Experience"『個人的な体験』

頁17

(前略)アメリカ人向きの香港ホンコン土産めいた金銀あやにしきの竜の刺繍をしたジャンパーを揃って着ている若者たちが群がっていて(後略)

ロカビリー時代はまだこれをスカジャンと呼んでないかったのでしょうか。髪型まで書いてないので、リーゼントだったのかなんだったのか分かりません。オーエサンが当時リーゼントを知っていたのかどうかも。主人公は彼らにカツアゲというか、線路脇の土手で囲まれるのですが、其処に走って来るのが蒸気機関車で、そんな時代なんだなと。ただ、「大時代な蒸気機関車」と書いてあるので、当時(1964年)でも珍しかったのかもしれません。「猛然と火の粉をまきちらして進んできた」(頁24)

頁56にジョニー・ウォーカーが出てきて、ジョニ黒でなくジョニ赤であることが示されますが、そこにもコメントはありません。頁62に深紅のMGが出て来ますが、国産車が珍しかった時代で溜池に中古車ディーラーがいたような時代ですので、後年付加された、英国車、オープンカー、故障しやすいのでオーナーは自分である程度修理が出来なくてはオーナーを名乗れない、のイメージを感じさせる文章は皆無です。エンストもしないでよく動く。エンジンベルトの代用にパンストが要るのだが火美子はストッキング履かないナマアシ派だったとか、そういう描写はだから、ありません。(私はその辺の知識を『シャコタン・ブギ』⑪「入門 ブリティッシュライト ウェイト スポーツカー」で得ました。パンストも。今表紙を見てもいい時代だったなと思う。彼らが現代に生きていたら、今は悪いツールがなんぼでもあるので、このように純な部分を保持し続けられなかったことは論を待ちません)

kc.kodansha.co.jp

頁34、主人公のパートナーが出産した産院の院長は、ちょっと21世紀の基準からすると、信じられないほど失礼です。産後父親と対面時クスクス笑いしてるとか、読んでて吃驚した。説明の仕方もヒドい。こういうことが日常ちゃめしだったのかもしれませんが、それにしたって。

頁59、主人公は、大学時代の同級生の女性のヤサにシケこんで、酒と睡眠薬に逃避します。主人公が作者と同じなら、東大ということになり、東大を出た女性、それも地方出身者は、学歴ナンバーワンなのに皆不幸になるように書いてあるので、それもヒドい話だと思いました。他人事だからそう書くのなら、そこにいってお互い初体験のアナルセックルする(頁130)とか、めちゃくちゃ。オーエサンは、だから企業が下宿の女子大生を忌避して、自宅生ばかり採る風潮が後年生まれたことを知っていたのかどうか。火美子という熊本出身のその女性の名前の由来を風土記からと見抜く博識の持主が主人公と頁59にありますが、それより、白人の血も引いているので大柄(記載個所忘れました)とのくだりが印象的でした。

頁103、「囲繞」と書いて「いにょう」とルビを振っており、正しいのでしょうが、IMEはそれでは変換しませんでした。「いじょう」でないと変換してくれない。

cjjc.weblio.jp

漢語にも同じことばがあるようで、あちらでは声調が近現代のあいだにも時代によって変化したようです。〈繞〉が、三声から四声になったとか。

頁119、ここは、日本語版ウィキペディアの要約にある、「医師を介しての間接的殺害の決意」の箇所です。むろん日本ではそんなことは出来ません。よくミルクを飲む、生命力横溢のあかごに、砂糖水を与えて弱ってもらうなどの間接的手段が語られます。ここ、一人っ子政策時代の中国の、《少生优生》だったら、ちがうだろうと、地壇医院を思い出して、思いました。本書のウィキペディアに、中文はありません。

頁149にもそのことが書かれ、さらに、主人公の連続飲酒の過去が書かれます。

頁149

 鳥バードは、昼夜しじゅう酔っぱらっている感覚、火照った頭と乾いた喉、疼く胃、重い体、無感覚な指、アルコールを吸いこんで弛緩した脳の感覚を思いだした。ウイスキーの壁に閉ざされた数週間の穴ぐら生活。

頁153に、進駐軍の機関であろう、「CIE」というセクションが出て来ますが、検索しないと分かりませんでした。

民間情報教育局 - Wikipedia

頁161、二日酔いで予備校講義を途中で放棄して早退した主人公は、高学費に見合った対応をしない教師を糾弾する地方出身生徒から密告されます。予備校の理事長は禁酒同盟の文京区支部長なんだとか。ここ、めずらしいと思いました。断酒会ってことですよね。清野とおる東京都北区赤羽』とこれと絲山秋子『ばかもの』*3くらいしか、私は断酒会が登場するマンガや小説を知りません。AAは米国の小説、ジョン・アーヴィングなんかには空気のように出てくるのですが、世界のハルキ・ムラカミや映画「ペルフェクト・ダイズ」で写真館店主を演ずるシバター元幸どんが、なぜかそれを曖昧にしか訳してないことに、この日記を書き始めてから気づいた自分がいます。それはそれとして、ローレンス・ブロックの須賀田さんシリーズの『八百万の死にざま』は傑作と今でも思う。

頁179に『やし酒のみ』で知られるナイジェリア人小説家の小説が出ます。頁7でも主人公は西アフリカと中央アフリカ南アフリカミシュラン地図を洋書専門店で求めていますので、整合性はとれています。ルワンダモザンビークフレディ・マーキュリーの生地マダガスカルに憧れているのにナイジェリア人作家だったら、へんなのと思ったでしょう。あるいは、ヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』があるので、東アフリカをアウトオブ眼中にしたのかも。

エイモス・チュツオーラ - Wikipedia

頁182に付箋をつけてるのですが、理由をもう思い出せません。月面に置き去りにされる我が子の夢を見る主人公が胎児帰りを起こして、オギャーオギャーと泣きながら寝ている。

頁200、エゴイスティックと今なら書くところを、「イゴセントリク」と書いていて、たしかしと思いました。英語圏ネイティヴが、エゴを「イーゴー」とはっちょんするのを聞いたことがあります。

上記チュツオーラサンの小説は『ブッシュ・オブ・ゴースツ』の邦題でちくまから90年代初頭に邦訳されているそうで、その中には欧州の妖精の取り替えっ子にも似た、幽鬼が胎児に入れ替わる話があるそうです。頁208。入れ替わった幽鬼は生まれた後病気になり、病気を治すため母親が捧げものをすると、供物を隠匿して貯め込み、最後に赤ん坊は死んで、供物の財宝を強盗幽鬼のまちに持ち帰る…

ダブルアスタリク以降の記述に対する批判は、ウィキペディアによると三島由紀夫に端を発するようで、三島ならさもありなんと思いました。三島サンは開高健『輝ける闇』に対しても、まったくのフィクションで脳内構築したのなら素晴らしいが、ベトナムに現地取材してその内容をただ書いただけなら意味がない、としています。本作に対しても、我が子の状態に対して作者がどう寄り添おうとそれはオーエサンの勝手、しかし主人公の名前を鳥と書いてバードとルビを振ったり、セフレの名前を火見子にしたりと、カリカチュアした作品で、最後だけストレートに作者の辿り着いた心境を書いてしまうのはどうよ。そういうことだと思います。フィクションで、ギミックを凝らした作品なのだから、結末迄完遂すべきだった。

しかし、オーエサンにとって、虚構が現実に侵食されるのなら、されるがままになろうというのも、ひとつの真実です。偶然読んだのですが、下記パレスチナ人作家の小説解説をオーエサンは書いていて、それはぜんぜん解説じゃないです。日本・アラブ文化連帯会議東京集会でオーエサンは司会だったのですが、親イスラエルで反ソ連のエジプトが集会に参加したので、松田政男というムチャクチャな左翼紳士をはじめとする日本新左翼集団が糾弾糾弾糾弾、会議は踊る、されど進まず状態となり、主賓のパレスチナ人作家さんも、アラブは一体、一枚岩である、エジプトが否定されるのなら我々パレスチナも退場しよう、と言って帰ってしまったという。

stantsiya-iriya.hatenablog.com

そういう人なんで、別にダブルアスタリスク以降がああであっても、それはそれでいい、と私は思います。

頁198

――カフカが父親への手紙に書いている言葉ですが、子供に対して親のできることは、やってくる赤んぼうを迎えてやることだけです。きみは赤んぼうを迎えてやるかわりに、かれを、拒んでいるのですか? 父親だからといって他の生命を拒否するエゴイズムが許されるかね?

 鳥バードはすでにかれの新しい性癖となってしまった激しい紅潮に眼も頬もみまわれたまま黙っていた。(略)

――ああ、この可哀そうな、小さなものジズ・プア・リトル・シング!とデルチュフさんがささやくようにいったので鳥バードはびくっと震えて顔をあげると、デルチュフさんは赤んぼうのことをではなく、鳥バード自身のことをいっているのだった。(略)

鳥と火美子がアフリカに行くオチだったら、架空のまま小説は終わったでしょうが、なんの余韻もなかったと思います。このオチでいい。責任を果たす。養育費バックレは別の話ですが、やっぱり爪の垢を煎じて飲んでほしいな。以上