1978年初版。読んだのは1982年の再版。
装幀 蔦本咲子
現代アラブ小説全集 7 : 太陽の男たち (河出書房新社): 1978|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
カナファーニーの日本語版ウィキペディアでは本書の刊行年を1988年としていますが、1988年に新装版が出ているので、そっちだけを取り上げてるのだと思います。
1978年版との差分は分かりません。2010年に河出から約二十年ぶり再刊、2017年にそれが文庫化。私が見に行った方のブログは、この文庫版を読まれたようです。収録された作品は同じ。訳も当時のものと同じなのかな。単語「スープ」などは21世紀ではもう少しちゃんと訳せると思います。文庫のアマゾンレビューを見ると、訳者のひとり、奴田原睦明による解説も全集のが収録されているようです。これは正直、引用の許容範囲を逸脱してるので、ルール違反です。11ページの解説のうち、自分の文章が3ページ半、7ページ半がPLO東京事務所の資料にある一パレスチナ難民の手記全文まる写し。大半を他人の文章引き写し、しかも全文とかダメです。全文は「引用」とは言わない。
解説以外に、「収録作品について」なるサマリも収められていて、どちらの訳者の手になるものか、署名がありませんが、こっちは冷静に書かれており、情緒過多に陥ってはいません。情緒過多に陥る理由として、イスラエル軍によるパレスチナ人虐殺事件があり、それはどちらの解説文も触れています。
『悲しいオレンジの実る土地』という作品がこの事件を扱っていて、アマゾンレビューでも、表題作をさしおいて、推すレビューがありました。私は、こういうのは、田宮虎彦の朝鮮から逃亡する少女の手記とか、藤原ていの流れる星は生きているとか、ペシャワール急行とか、いろいろ読み過ぎたので、これだば、ちょっと抽象的な描写が多いと思いました。当事者なので、1963年であっても、1948年のことを思い出し乍ら書くとしたらここがリミッターなのかもしれません。
頁109
必勝のアラブ同盟軍が、仇を討ちに戻ってきてくれる五月十五日を、彼は胸の中で指おり数えていたのだ。
しかし銀馬将軍は来なかった。"銀馬는 오지 않는다"
河出文庫表紙のアラビア語が、小説タイトルでなく、作家名であることが、アラビア語版ウィキペディアから分かります。
私たちは、小学校くらいに、国語の時間に、日本人はお皿が割れると、自分のせいでもないのにすみませんと謝るが、中東なんかに行くと、この皿は今日割れる運命にあった、インシャアッラー、みたいな感じで、自分が悪くないものは悪くないと煙に巻いてくるみたいな文化の違いを習います。これを日本語で習うのがあとあと尾を引いて、国際社会で英語でそれを主張出来ず、読めもしないコピペメールを大量に白人議員に送り付けてメールボムのいやがらせと思われて却って態度を硬化されたりします。英語の授業で英文で習えば、そのまま国際社会で主張出来るのに(そしてすぐ叩かれ、口惜しいので反論も英語でディベート出来るようになる?かな?)少なくとも内にこもって傷のなめ合いとカンパ要請にこたえるだけのマシーンにならずに済む。
そういうことを想起するのが『太陽の男たち』です。主人公は、最初自分を責める方向に行くような、まだその時点では名前のない感情にさいなまれますが、相手がこうしてくれれば自分もこう出来て、相手も助かったんだ、相手はなんでこうしてくれなかったんだ、なぜだ、なぜだ、と、ようするに相手に責任転嫁することで精神のオチのつけどころを見つけます。この辺のアヤは、なかなかいいです。
もうひとつの表題作『ハイファに戻って』は、逆です。相手にそう責められ、しかし、それが本当に正しい道だったのだろうかと問い返す話です。(その一方で、弟を、兄と戦わせる呪われた道へと背中を押そうとするようにも読めますが)武力で奪還しに来て、その結果玉砕したとしても、そのほうがいいじゃないか。いや、息子よ、それをしないで、難民になってから、ただ、生きていくことに一生懸命に生きてきて、今日の日、再会の日を迎えた、それがそんなにいけないことなのだろうか。平和な日本の私からすると、荒井由実の翳りゆく部屋の歌詞のようです。
上記PLO資料の青年の主張には、デイル・ヤシーン以外に、「アイン・アル、ザイトゥーン」「サラ・エル・ディン」というふたつの虐殺が記されていますが、いずれも検索で出ませんでした。アイン・アルは、ゴスンのリバノンに存在する難民キャンプ名、ザイトゥーンはアラビア語でオリーブの実(平和)を意味する、と出ただけ。後者は、サラ・エル・ディン(サラディン)のシタデル、カイロ要塞の別名という、エジプトの観光地が出ただけです。
解説によると、カナファーニーはフランス系ミッションスクールで教育を受けたので、母語であるアラビア語の作文は後天的に学んだそうです。パレスチナとレバノン、回教とマロン派キリスト教の違いはあれど、カルロス・ゴスンにも共通するところがあるのかもしれない。中流と上流だからそこは違うか。解説にはウィキペディアにない糖尿病との苦闘が書かれ、ウィキペディアには解説にない妻の来歴(デンマーク人の児童人権活動家)と子供の数が、つけたし的に書かれています。どちらも、姪を巻き添えにダイナマイトで爆殺されたことは明記。
私は出費をケチって、図書館に税金で蔵書されている現代アラブ全集を借りましたが、このアラブ全集はこんにち的にもなかなか意味があるそうで、検索で出た2010年の中東関係のワークショップのレジュメによると、マフムーズのカスラインという作品を英訳に先んじて邦訳したとか、先進的なサーレフという作家の作品を紹介したとか、ディブやマムリといった、マグレブの仏語作家も巻を割いて包括的に紹介してる点が挙げられるそうです。
http://meis2.aacore.jp/report/report_beirut_seminar/report_beirut_seminar_2010_udo.pdf
で、各巻巻末に解説ならぬ「論文」が付記されてて、コサミョンやキムソクブムといった在日コリアン、いいだもも、何でも見てやらふ、井上光晴なんかの名前が見えます。カナファーニーの巻は、天下の伊丹十三の妹の宿六。ノーベル文学賞受賞講演は「あいまいな日本のわたし」でしたが、本巻末論文は「カナファーニー集に後記を書く資格のないものとして -《アラブのエクリチュール》」です。
大江健三郎はアジアアフリカ作家会議の絡みでこの小文執筆を担当することになったのですが、直前かなんかにサイコロジカル・ノック・アウト(PKO)されてしまい、腰砕けかつ恨み節を書くはめになっています。現代から読むと事実関係がかいもく分からないのですが、日本・アラブ文化連帯会議というのがあって、それの東京集会でのオーエさんの講演が、日本人活動家によって粉砕されたみたいです。親イスラエルで反ソのエジプトが参加したので邦人「おかつ」が断固反対して、エジプトが退場するならアラブは一路一帯デスヨ、と当のパレスチナ人作家までもが帰ってしまったという惨事のようで。オーエさんは、ともかく話を聞こうよ、耳を傾けようよ、とでも言ってたのか、
頁278
その後、僕が「涙ながらに訴えた」と新聞記事に出て、すなわち僕は永く忘れられぬであろう恥を広くさらしたが、(以下略)
旅行人の蔵前仁一とかそういう人たちなら、イスラエルに入国するともうアラブ諸国には入国出来なくなり、たとえパスポートにハンコつかないで入国カードにハンコついたりしても、ほかの国の出国からの空白をチャンとチェックされる、エジプトとヨルダンからイスラエルには入国できるが、出国後ほかのアラブに行こうとするとどうのこうの、こういう手を使えばいける、いやいけないといったところでエジプトの立ち位置をよく知ってると思うのですが、この頃の活動家の理解はまた違うと思います。本書頁190の地図には「占領パレスチナまたはイスラエル」と書いてあるくらいで。「南朝鮮カイライ政権」と同じノリと思う。小さなバイキング、プッケ(北傀)
頁273
この集会の僕の憐れな道化ぶりについては、当の破壊グループの松田政男氏がみごとな嘲弄、罵倒の文章を書かれた。僕はこの人について尊敬する材料をもたぬが、その悪意の深さに感心した。
オーエさんは自称「戦後民主主義者」私から見ると「進歩的文化人」この論文が文庫にも収録されてるといいなと思いますが、事件の概要説明のような補足がないと、読者は消化不良になると思います。日本アラブ文化連帯会議についてまとめた本でも読めば、分かるのかなあ。下記が検索で出ましたが、出版は潮。いろいろ絡んでるんだなあと思いました。(ほかにも単発の論文が出ますが、掲載誌がまたいろいろ)
第三世界と現代文明 : 日本アラブ文化連帯会議の記録 (潮出版社): 1976|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
以上