『ペルーの和食 やわらかな多文化主義』”Washoku -Japanese food- in Peru. Soft multiculturalism" (慶應義塾大学教養研究センター選書⑯)"Book Selection of ReCLA, Keio Research Center for the Liberal Arts, ⑯" 読了

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Keio University 1858 CALAMVS GLADIO FORTIOR Mundus Schientiae

装丁ー斎田啓子 

時の所長サンの「刊行にあたって」によると、〈Mundas Schientiae〉は「知の世界」「学の世界」を意味するラテン語だそうです。表紙と裏表紙のそのところをここに置くのは、やわらかな権威主義ではないです。學の獨立。表紙に三回も書かれる"The Liberal Arts"は、「ぱんきょう」と訳してよいか否か。

今月中に紀伊国屋で一万エソ以上買い物すると、ステージがゴールドにあがるというので、買った本の中の一冊。一万エソってあんたねえ、と、後から後悔でとても頭を抱えました。

ペルー料理について、もう少し知りたいな、と思って読んだ本ですが、この本はペルー料理の本ではなく、ペルーの日本食と、それについての日系人のかかわりについて書かれた本なので、知りたいこととイコールではなく、もどかしさがなくもない読後感です。私が知りたいのは、①ロモ・サルタードなどにポテトフライがそのまま使われているのはなぜか。また、どうしてそうなったのか。②醤油を使ったロモ・サルタードは、その制作過程において、日系が大いに貢献したと日系ペルー人がうれしそうに語るのですが、資料を見ると、醤油を使った炒め料理は、中国系が発祥となっており、しかし日系人がほこりのよすがにするに足る何かがあるのではないか、あるとすればそれは何か、です。

ちなみに、ペルーの下層労働は、現地人もそうですが、スペイン時代は黒人奴隷も導入され、独立後は暫く中国人が流入して銀山等で働き、その座を、国策移民の日系人が割って入った、かたちみたいです。日本で見てる限りはあまり黒人ぽいペルー人見ないのですが、かつてひとり多少褐色の女性と何度か話したことがあり、最初その女性をタイ人と思っていて、アメリカ人から「彼女に失礼だろう」と言われたのですが、タイ人だと思うとなぜ失礼なのかいまだに分かりません。タイガー・ウッズだってタイ人気質じゃん。

頁21、1909年に外務書記生伊藤敬一という人がペルー移民を分析して、北米で日本人はうまく現地に同化しないのだが、ペルーではいともたやすく同化してしまう、四年五年いると、もう現地のペルー人と区別が出来なくなる、と書いていて、それは受け入れる側の障壁の有無にも左右されやん、と思いました。その当時から、雇われの場合自炊でなく農場の賄いであることからも、移民の朝食は甘い紅茶とパンだったそうで。

(1) どうもこれまで私が狭い範囲で歩いて食べてきた感触から言っても、セビチェ(本書ではセビッチェ)とロモ・サルタードがペルー料理代表の双璧といって過言ではないのですが(次点:パラワンカイナ)なぜロモ・サルタードがポテトフライを食材として使うのか、最近読んだケニヤ料理店のメニューにもポテトフライがアテとして記載されているのですが、添え書きが「テレレッ、テレレッ、テレレッ、な味をあなたに」と、マクド店内そのままな書き方で、ポテトフライってそういうものだよなあ、なんでそれを食材として再加工しようとするんだろ、の疑問に関して、次に読む本で完全回答に近い霊感が降りてくるのですが、本書はその前哨で、ロモ・サルタードに関し、じゃがいもを炒めるという書き方をしていて、最初からポテトフライに特化していたわけではないことが分かります。昔はちゃんとじゃがいもをジャーマンポテトのように切って炒めていた。

それがなぜポテトフライを使用するようになったかについて、当初は沖縄のスパムやキャンベルのように、軍用レーションや援助物資の常食化ではないかと疑っていたのですが、じゃがいもは毒のある芽が出てしなびてしまう悪魔のリンゴなので、長期保存にむいておらず、それで冷食のフレンチフライを安直に使うようになったのかもしれないと思うようになりました。じゃがいもそのままとポテトフライとでは食感がまったく違うですが、そこに目をつむっても、食材の安定供給を優先させたのかもと思いました。

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頁52、南米の日本酒と言えばブラジルのカンピーナス東山農場特製「東麒麟」が有名だが、南米最初の日本酒はペルーのアンデス正宗で、1910年ごろ製造開始だそうです(現存せず)

キリンホールディングス、ブラジル子会社株をキッコーマンへ譲渡(ブラジル) | ビジネス短信 - ジェトロ

頁53-55まわりに、1940年の排日暴動略奪、1941年の国交断絶、北米への強制送還などが書いてあるのですが、同じ個所に、日系と、漢族のチファ料理の現地需要の差、日系もまたチファ料理を日本料理店より親しみやすい会食の場として利用していた旨の記述があります。日本でも在日コリアン社会は宴会中華を利用しますから、どこでも似たようなことがあるのかなと思います。

(2) 日系がセビチェにタコをくわえさせたとか、小分け小袋販売することによって、アジノモトを日系と華人以外のペルー人にも広めたとか、断片的に日系がペルーの食文化に及ぼした影響は分かります。本書では、「ニッケイフュージョン料理」ということばを使っていて、これはたぶん現地の和食人気店のシェフたちがそう自称してるからではないかと思います。クレオール料理というか、スペイン語なのでクリオーリョ料理というと、ペルー料理そのものを指す言い方になる(cocina criolla)し、さりとてケイジャン料理というとフレンチルイジアナガンボスープやフライドチキンを連想するわけで、新しい言い回し、「ニッケイフュージョン」が求められたのだなと思いました。

センデロ・ルミノソからみかじめを要求されたので一時休業してサボタージュしてた女性店主Rosita Yimura(ジムラ)など、有名な日系シェフの写真がいくつも載ってますが、ディエゴ・オカ(Diego Oka)という人の写真が、ぜんぜ料理人に見えなくて、けっこうふしぎです。どんな料理作るんだろう。

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上のサイトの、三つ目の写真が、本書で使われています。以上