『浦島草』"Urashimasō"(cobra lily Urashima)(Urashima: A Japanese Rip Van Winkle)by Minako Ōba(講談社文芸文庫)"Kodansha Bungei Bunko" 読了

道浦母都子サンが、女性文化人に会いに行く雑誌の企画で大庭みな子サンと会うことになった時、先方から事前に読んでおくよう指示された小説。

『聲のさざなみ』"Ripples of Voice" by MOTOKO MICHIURA 読了 - Stantsiya_Iriya

大庭みな子 - Wikipedia

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Urashima Tarō - Wikipedia

リップ・ヴァン・ウィンクル - Wikipedia

正直、大庭サンがなぜ道浦母都子サンにこの本を指定したのか、さっぱりさっぱりです。自身では、賞はとれてないけど、この本を代表作と思っていたのかなあ。原爆投下後救援隊として駆り出され、目にした光景が、ほぼ描かれていると考えてよいと思います。

あるいは、短歌協会で何度もジョンバーシー(正八十)の中国を訪問し、大阪中華学校で日本語を教えていた母都子サンに対し、大庭サンも84年に杭州を訪れ、86年にも重慶から武漢まで長江下り他、二度訪中し、あまつさえ1987年には当時文化相だった王蒙の来日時に歓談までしてることを言いたかったのかもしれません。あたしってば、淡い灰色の瞳のワンイエとツーカーの仲なのよっ、みたいな。

『浦島草』もまた、導入部は高行健の匂いを感じないでもないですが、寄らば切るでバッタバッタとその辺の下放先のチャンネーとパコるような場面はありませんので、やっぱり違う人の違う小説です。

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広島で被爆した女性泠子が、庭先に浦島草の咲く東京の家で

ひっそりと暮らす。そこへ十一年ぶりにアメリカ留学から

主人公の雪枝が帰って来る。後を追う恋人のマーレック。

泠子には雪枝の兄森人との間に、自閉症の息子黎がいた。

多くの人物が広島の滅びの光景を引きずり、物語が進む。

人間の無限の欲望と、その破滅を予感する作家が

女たちの眼を通して創出した壮大で残酷な詩的小説世界。

1977年書き下ろし。講談社文芸文庫の解説は、星条旗が聞こえないリービ英雄。でも、アラスカもののほうがリービ的には書評を書きやすかったのではないかと。カルチャーギャップに直面したアメリカ人が、万引き対応の日米対比や、日本の商店が閉店時必ずシャッターを下ろす意味などを、ああだこうだと文化比較で論評する場面や、来日したばかりの西洋人に必ずウナギとドジョウをリーオゴで食わせようとする日本生活の長いアメリカ人のくだりなど、こんなの個人の感想じゃん、一般化すなよ、と、読んでてくさくさしてこなかったらエラいです。

十章からなっていて、「よのみ鳥(椋鳥の意味)」「白いかわうそ」「浦島草」「やなぎ(日本では不吉な木)」「すいかずら(バーの名前)」「月の蠟燭」「蜃気楼」「ありの実(梨の汁をしぼって砂糖とゼリーで固めた新潟銘菓)」「春雷」「けむり(スープカレーの屋台ではありません)」さいごの「けむり」はまだ読んでる途中です。

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頁33、誰が梅毒だったのか、あとから考えるともう分かりません。入り組んで錯綜してる家系図を書いて整理しないといけないのですが、そういう気力がないです。

そうした錯綜した人間関係をあらかた吐いてしまうと、それで気が抜けてしまうのか、その後彼らが縦横無尽に人間関係をもつれ、変化させるということがないです。新潟ということでしたら、高橋留美子のマンガのほうがよほど猫の目のように人間関係がくるくるくるくる入れ替わる。まあただ、本書は新潟育ちの女性が広島で原爆に遭遇する設定ですが、大庭サンは広島育ちと言った方がよく、人生の一時期新潟にいただけという感じです。創作ではその辺転倒。

頁86

(略)彼女の育った村では、若い男や女たちは、祭の晩に異性同士があからさまに興味を示し合うことを半ば公然と認められていた。気の多い男や女たちは次々と恋人をつくり、うっかり子供をつくりさえしなければ、女はたくさんの男に相手にされることが誇りでさえあったのである。

 しかし、少年や少女たちは当然のことながら計算高く、お互いに、自分のためにならない相手を避ける術に長けていて、耕地を分けてもらえそうもない二、三男や、将来後盾になってくれそうな親を持たない娘は、気紛れの遊び相手としてしか扱われないのが常だった。早熟で器量のよいユキイは孤児であったので、嫂の口癖は〈イイカ、オトコノイウコトヲ、マトモニ受ケルンジャナイゾ、オトコハオ前ヲ、カワイイトカ、好キダトカイウカモ知レネドモ、ソレハナンノ意味ガアルワケデハナインダカラ。オ前ノヨウナ女ヲ、本気ニナッテカカニスル気ハナインダカラ〉という言葉だった。〈赤ん坊ボコデモコサエテミロ、ソレデオ前ハオシマイダ。(以下略)

ここはまだよくて、前夫(復員)と現夫(マオトコ昇格)と泠子の3P場面など、石原慎太郎読んだことありませんが、石原慎太郎みたいと思いました。

頁106

 森人がいるときは、違うやり方をした。自分本位に女を痛めつけ、次の男に放り出す気分で、タバコを咥えて、森人に下半身をとられている泠子の顔を自分の方にねじ歪め、その唇で吸わせた。泠子が上で喘いでいれば、後に指を挿し入れて、猿のようにくっくっと笑った。

このテンションが持続するのかと思ったですが、書くだけ書いて欲求が満たされたからか、邦画が後半失速するが如く、後半は淡白です。夏生と黎のように、魅力的というか、どう他の人物と絡んで、誰が傷つくのかお手並み拝見と思うと、そういう展開は一切ないです。

頁50、釘かくしの意味が分からなかったので検索しました。

釘隠 - Wikipedia

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頁137、新潟のむかしの大きなおにぎり、一合二合まるまるひとつに握り込んだおにぎりを見てみようと検索したら、越後湯沢の爆弾おにぎりが出ました。

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頁138

(略)その仏前に供えた白飯を、半日もたって大方ひからびると、ぽんと抜いて、醤油をつけて炭火であぶり、〈おぶくさま〉と称して珍重して食べた。貧しい農家で、愛されている子供や年寄りがありつける唯一の菓子だった。

「おぶくさま」という言い方は聞いたことがなく、検索すると、真宗大谷派の言い方だとか。新潟でそれだと、なんでしょうか。上杉毘沙門天みたいな話になるのでしょうか。上杉謙信一向宗は多分違うと思いますが、知りません。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

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うちではこういう陶器の器でお供えします。『浦島草』のおうちでは、小さな真鍮の茶碗に入れるそうです。上の写真は供え終わった後、コメがとれやすいように、一緒に下げた湯呑のお茶をかけたところ。先祖はそんなことせずに、下げたら食べてたようですが、今はもうそういう風習はないです。

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ぽんととれたコメ。こんなかたち。鳥にやったりします。

頁212、来日したアメリカ人がデパートに行って、蛍光灯で目がちらついて頭痛がしてくる描写、な~るほどと思いました。いかにもありそうですが、自分が気にならないので、愚痴をこぼされても残らない。

頁323

 植物学者に言わせると、せいたかあわだち草とすすきは、何年かの周期で、交替に生い繁り、繁殖の極に達すると、自然に死滅し、一時死に絶えていたどちらかの繁茂をうながすという。

知りませんでした。

新幹線の発車アナウンスとベルを聞いて驚くアメリカ人に、その意味を説明すると、返して曰く、

頁353

 日本人は、みんな母親に手をひかれている子供か、手をひいている母親かのどちらかだ。母性文化だよ。マーレックは肩をすくめた。

ドラえも~ん。

頁463「乳しぼりの娘のようににやにやした」の意味が分からなかったです。とうとつに乳しぼりウンヌンの単語が出た。

後半失速はエロス絡みだけでなく、新潟の故郷が原発建設中の描写にも見てとれます。広島との対比を考えていたのでしょうけれど、作品中に占める分量が、重みとして対になっていない。3.11はおろか、チェルノブイリもまだ起こってない1977年執筆なので、脱原発みたいなうねりは、まだまだ先の話だったのでしょう。スリーマイルも1979年。

さいごの「けむり」を読んだら、追記します。とりいそぎ、ここまで。

【後報】

リービ英雄も指摘しているように、『浦島草』は会話文をカギカッコでくくっていないので、モノローグのような一人称の問わずがたりと、三人称の地の文が並走してはしっています。リービ英雄はそれをして、せりふと地の文の区別がつかずひとつのテキストになっていると表現してますが、私が読むと、主語が一人称か三人称か(日本語なので主語は往々にして省略、隠されていますが)、主観か客観かでほとんど完全に判別出来ます。スイッチを切り替えるかんじ。

最終章「けむり」で、いろんなことがばたばたと急変しますが、それらはすべて口からの説明で済まされます。じっさいにその場が書かれることはない。ネタバレですが、妊娠してんなら酒飲むなよ、と、21世紀の今なら思う。当時はあまりそこの認識はなかったのかな。飲酒する女性が珍しいから、どういう状態の時は控えた方がいいかまで知識が集積されてないかったのかも。

妊娠で、黎が当時だんだんに取り壊されていった、「東京の間取りの広い一軒家」から放り出されることの合理的説明がなされるのですが、こういう解決法はナカナカ現実には存在しえないので、それで、ゴミ屋敷やら荒れ果てた一軒家やらがあちこちに残るのは、それこそ、頁525、「同種類の病気をごく軽い状態で患っている人はたくさんいるでしょう」なのだろうと。それで両親は頁521によるとどうやらお遍路さんになったみたいで、ですがまあ、六根清浄とか、唐突でお門違いな感じなので、あいまいにしか書いてません。白い着物着て杖ついて「ただ黙って歩いていたいのよ」六根清浄とか唱えてないみたいです。

そうしたもろもろは、クセの強い人物相関の相乗効果で起こったことではなく、今も昔も変わらぬ外的要因、昔と同じくらい男性のミリキがあると思っていたらただのパパ活だった、という外的要因で引き起こされました。あれだけ入り組んだ家族関係を丹念に設定して、しかしそれは設定だけで、ダイナミックに躍動しないという、そこに作者の鎮魂というか、人間の欲望を静めておきたい気持ちの表れがあるのかもしれません。

以上

(2022/3/16)