『鎌倉文士骨董奇譚』 (講談社文芸文庫)読了

鎌倉文士骨董奇譚 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

鎌倉文士骨董奇譚 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

以下後報
【後報】
アマゾンだと、白洲正子との共著みたいな打ち込みですが、
青山二郎のエッセーを集めた本で、白洲正子は彼の「人と作品」を書いています。
永井龍男河上徹太郎今日出海も書いているのですが、白洲と違って、
「資料」のくくりです。
大岡昇平について、青山自身は、頁13で熊沢天皇と呼んでみたり、
取り急ぎ骨董センスのない男として捉えていることは分かりました。

箱書きへの工夫や、陶器を煮たり爪を立てたりで細工するのが好きなのは、
他者の本で読んでいましたが、そういう人がエッセーで他人の文章を引用すると、

頁40
 右の対談は勝手な所から引き抜いて、勝手に組合せた上、都合で会話も切ったり張ったりした。

これはダメだと思いました。私はこれはやっちゃいけないと思う。
むかしの人が必ずしもモラルハザードがよくないといういい例だと思います。
この人が青山学校と呼ばれるくらいカリスマだったというのが、
また人間(じんかん)の妙だと思いました。

ちょっとぞっとしたのが、宇野千代との往復書簡で、「ゆき子」という仮名で、
例の「むうちゃん」*1について語っている箇所です。
Wikipediaにも青山二郎の坂本睦子評として引用されている個所ですが、
もう少し長く読んで、私は顔をしかめてしまいました。

頁77 最も善く出来た田舎者
 彼女の魂には昔から、彼女にしては支え切れない凶暴な刻印が打たれているのです。それ以来、長い間に段々呪われて行って、自分が何時か虎の様な様に変って行ったのを当人は気付いていません。彼女はいつまでも自分は美人だと思わせられています。自分の頸に綱をつけた悲しい虎が、その手綱をくわえて……本来の女性に立返りたがって彷徨う有様を、彼女の底に見ることが出来ます。その結果この虎は人の魂を喰い荒す様にも見られて来た悪女です。「聊斎志異」だと仙人が現れて彼女の呪詛を解くのですが、南画では虎をその儘の虎として手馴ずけた仙人が、虎にもたれて昼寝の夢をむさぼっている図があります』

青山は自分を仙人になぞらえているのだろうな、と思いますが、
これはむうちゃん視点で考えて、着地点としてはどうなのか。
人は虎より怖いですね。
その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち (シリーズ ケアをひらく)

その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち (シリーズ ケアをひらく)

本人の文章でも、父親をハウスと呼んでしつける描写がありました。
また、中原中也への回顧も、青山の人を吞む態度(蛙なのにヘビのように吞む)と、
飲まれない中也、という比喩で戯曲になりそうな物語色です。

スノッブスノッブを嫌う、という感じで、魯山人をクソミソに、
魯山人のゴシップをこれでもかと書きなぐっている箇所は面白かったです。

頁188 銀座酔漢図絵
創元社は私に給料を呉れる様になった。社員の教育と称して、私は始終彼等を引張り出した。社が退けるのを待伏せていて、飲みに誘った。中に虫のいいのがいて、自分等の好きな女の子達を連れて来て、私に御馳走させる。恁ういうのは私の方でも、帰りに新宿へ連れて行って置いて来る。岡村政司は飲んでさえいれば御機嫌だった。創元社には夕方にならなければ顔を出さなかった。小林秀雄が頼まれて、或る晩、創元社の方を廃めて呉れと言った。勿論願ってもない事だから喜んで廃めた。社員教育の為に待合の借金が一万円を越えていたからである。それを聞いて、両小林は開いた口が塞さがらない様な顔をした。

上下関係を構築するために、待ち伏せまでするのか、と思いました。
恋愛だけじゃないですね、ストーカーって。
先輩後輩上司部下の関係性を自分の望むようにコントロールするために、
偶然を装って私的な時間でも「出っくわす」タイプの人は私も経験ありますが、
目に見えない体液がその人のまわりにまとわりついてる感じがします。ああ嫌だ嫌だ。

「恁ういう」は青山二郎の文章に頻出します。彼のクセです。

恁 - 日本語例文検索 - 用例.jp
http://yourei.jp/%E6%81%81

もうひとつむうちゃんについて描いた箇所を。
カナヅチの彼女に泳ぎを教えると請け負って海に入れたエピソード。

頁208 我が河童記
 睦子が決心して、桟橋の鼻から水に入り、岸に向って泳ぎ始めた。見て行くと、最初からモウ危なかった。必死に泳いでいるが一向に進まないのである。その中に上眼を使って、時々私の顔を見る。早く助けて呉れという顔付きだ……それでも桟橋の上を、自然に私の方でも歩いている処を見ると、進んでいることは進んでいるのであった。だが、睦子の方は溺れかけていた。いけないかな、と思った時には四五間も泳いでいたろうか、急に桟橋が水面から高くなって来たのに気が付いた。飛降りようかと思った時には、飛降りたら怪我をするのが分った。困ったことになった、と見ていると、睦子は遂々参って仕舞い、泳ぐことを廃めて、本当に溺れ出した。溺れて、出鱈目に手足を動かしたら、砂地が手に届いていたのである。側に五ツ六ツの子が、浮袋を腰にはめて立っていた。

助けてくれると約束した誰かが助けると固く信じている人は、
その誰かが助けないと、足が立つ浅瀬であっても、溺れる。
(2014/12/11)