『暗闇のスキャナー』 (創元SF文庫) 読了

読んだのは1999年の四刷。
以下後報。
暗闇のスキャナー (1980年) (サンリオSF文庫)

暗闇のスキャナー (1980年) (サンリオSF文庫)

スキャナー・ダークリー (ハヤカワ文庫SF)

スキャナー・ダークリー (ハヤカワ文庫SF)

読んだのは初版。
【後報】
A Scanner Darkly (S.F. MASTERWORKS) (English Edition)

A Scanner Darkly (S.F. MASTERWORKS) (English Edition)

浅倉久志訳のスキャナー・ダークリーのほうも借りたのですが、
訳の違いを愉しむまで読み込む時間がありませんでした。
ハヤカワで新訳を出したのは、映画化に伴う版権移動という、
大人の事情があったからだそうです。ハヤカワは、
カバーイラスト:影山徹 デザイン:岩郷重力+T.K

創元推理は、カバー:松林久治

作者あとがき
 この小説は、自分の行ないのためにあまりにも厳しく罰せられた人々についてのものだ。みんな楽しく過ごしたかっただけなのだけれど、みんな道路で遊ぶ子供同然だった。仲間が一人また一人と殺されて――ひかれて、不具になり、破壊されるのがわかっても、とにかく遊び続けた。おれたちみんな、しばらくはすごく幸せだった。すわりこんで、働きもせず、ヨタをとばして遊んでるだけ。でも、それは死ぬほどちょっとの間しか続かなくて、その罰ときたら信じ難いようなものだった。それをまのあたりにしても、まだ信じられないくらいだった。たとえば、これを書いているとき、ジェリー・フェイビンのモデルになったやつが自殺したのを報された。アーニー・ラックマンのモデルになった友だちは、この小説を書き始める前に死んだ。このおれだって、しばらくはこの道路で遊ぶ子供たちの一人だった。おれも、ほかのみんなと同じく、大人になるかわりに遊ぼうとして、そして罰を受けた。おれも後出のリストに載っている。この小説を捧げる人々のリストであり、その人々がどうなったかのリストだ。
 ドラッグの濫用は病気じゃない。決断だ。それも走っている車の前に踏み出そうとするような決断。そういうのは病気と言うよりも、判断ミスだろう。山ほどの人がそれを始めたら、それは社会的な誤りになり、ライフ・スタイルになる。このライフ・スタイル独特のモットーは、「いまを幸せに――明日になったら死んでるから」だけれど、死ぬのはアッという間にはじまって、幸せなんか思い出でしかなくなる。それならば、このライフ・スタイルも、ふつうの人間存在のスピードを上げて、集約したものでしかない。あんたのライフ・スタイルとだってちがっちゃいない。ただ、もっと速いだけ。何年単位のかわりに、何日とか何週間とか何カ月の単位ですべてが起こる。「現金をつかんで質草は流してしまえ」とヴィヨンが一四六〇年に言っている。でも、その現金が小銭程度で、質草が自分の一生だったらそうはいかない。
 この小説に教訓はない。ブルジョワ的じゃない。働くべきなのに遊んでたりしてこいつらはけしからん、とは言わない。ただ、結果がどうなったかを書いているだけだ。ギリシャの劇は、社会として科学を発見しつつあった。科学とはつまり因果律。この小説にもネメシスの天罰が存在する。運命じゃない。おれたちみんな、道路で遊ぶのをやめようと思えばやめられたんだから。運命じゃなくて、遊び続けたみんなに対するおそるべき天罰なのだ。おれのジネイと心の心底からそう言いたい。このおれはといえば、おれはこの小説の登場人物じゃない。おれ自身がこの小説なのだ。でもそれを言えば、当時のアメリカすべてがこの小説だ。この小説は、おれの個人的な知り合いよりたくさんの人たちについてのものだ。おれたちが新聞で読むような人たちについて。こいつは、仲間とすわりこんで、ヨタを飛ばしてテープで録音したりすることや、六〇年代という時代の、体制内外での悪しき選択についての小説だ。そして自然がおれたちに鉄槌を下した。おそるべき事物によって、おれたちは無理矢理遊ぶのをやめさせられた。「罪」があったとすれば、それはこの連中が永久に楽しく過ごしたいと願ったことで、それ故に罰を受けたんだけれど、でも、さっきも言ったけど、おれの感じでは、その罰はあまりに大きすぎた。だからおれとしては、それについてはギリシャ式に、あるいは道徳的に中立なやりかたで、単なる科学として、決定論的で公平な因果律として考えたい。おれはみんなを愛していた。以下の人々に、おれの愛を捧げる。

  ゲイリーンに(死亡)
  レイに   (死亡)
  フランシーに(不治の精神病)
  キャシーに (不治の脳障害)
  ジムに   (死亡)
  ヴァルに  (不治の重度脳障害)
  ナンシーに (不治の精神病)
  ジョアンに (不治の脳障害)
  マーレンに (死亡)
  ニックに  (死亡)
  テリーに  (死亡)
  デニスに  (死亡)
  フィルに  (不治の脾臓障害)
  スーに   (不治の血管障害)
  ジェリーに (不治の精神病と血管障害)

 ……その他大勢に。
 追悼。これがおれたちの同志だった。それも最高の。みんなおれの心のなかに生き続けている。そして敵は決して許されることはない。「敵」はみんなの遊び方のまちがいだった。みんながもう一度、何か別のやり方で遊べますように。そしてみんな幸せになれますように。

浅倉あとがきによると、フィルが作者だそうで、上の山形訳では脾臓ですが、
浅倉訳では膵臓になっていて、1969年の密売薬による膵臓炎と腎臓衰弱に、
呼応しています。ディックは1972年リハッブに入り、1977年本書脱稿ですが、
書き上げるまでは、例によって、ぶっ倒れるまでやる、というアレだったとか。
その後神秘体験を経て、1982年心不全で逝去。享年53歳。

山形訳は、本人も少し自嘲してますが、おおいに口語的で、浅倉訳は、
よそよそしいというか、他人行儀というか、距離を置いてる気がします。
上の作者あとがきだって、山形はヤク中仲間を「みんな」と訳して、
仲間意識むき出しなのに、浅倉訳は「この人々は」です。
山形は訳者あとがきで参考文献の香山リカをリカちゃんと書いたり、
止まらなくなってるなと思いました。今のリカちゃん見て何を想うか。

頁408 山形訳者あとがき
 もちろん実際には、すべてのヒッピーがディックの友人たちのような不幸な末路をたどったわけではない。ほとんどのヒッピーやジャンキーは、それなりに生き延びて、株屋になったりリゾート開発の手先になったり、あるいはドロップアウトとしての生活を貫き通したりして、この九〇年代までなんとかやってきている。そういうある意味でぶざまな、或る意味でまっとうな、ある意味で平凡なヒッピーたちの後世の姿は、トマス・ピンチョンの(現時点での)最新作『ヴァインランド』などに見ることができる。もちろん、こっちが真実でディックが描いているのはペシミスティックなうそだ、というわけではない。あたりまえの話だが、人の数だけ生があり、属する社会的文化的な複合体があったというだけのこと。『暗闇のスキャナー』も、たかだかそのなかの一つの複合体の産物にすぎないことは忘れてはならない。(以下略)

21世紀はケミカルがものすごく発達したので、90年代逃げ切っても、
その後どうかな、というところはあると思います。で、
こういう辛口評を書いた山形の学生時代最後の翻訳の一冊が本書で、
山形の経歴みると、東大院卒(修士)で、就職先は野村総研。ちょryおまww(棒

叩き上げの浅倉老成訳が距離を置いたよそよそしさで、あとがきもそうですが、
学生時代やんちゃして、健康なうちに賢く抜けきったのかも、みたいな、
山形訳がジャンクな口語訳。冷徹な浅倉文章の根底にバカな奴への嫌悪、熱さがあり、
なれなれしく書き切った山形訳のうわべだけのぺらぺら感が、虚しく哀しい。

冒頭で、見えないアリマキに苦しめられるジェリー・フェイビンは、
工場で自動車のブレーキドラムのライニング交換の仕事をしていて、
底つくより先に脳に来た、という設定でしたから。ブルーカラー
逃げ切れた人は、逃げ切れなかった人、もどってしまった人のことを、
永遠に忘れてはいけないと思う。

頁28
「ジェリー・フェイビンは、あたしが最初に伝染したって思ってんのよ、あのムシを」
「アリマキだよ」
「でもその頃はまだ、なんのムシかわかんなかったのよ。とにかくあたしは近づかないほうがいいわ。こないだ会ったときも、すっごいキツくなったし。脳のレセプターがどうしたとかでしょ、あのヒト。最近の政府のパンフを見るとそうみたいよ」
「それ、なおんないんだよな?」
「ええ。回復不能だって」
「クリニックの人は会わせてくれるって言ってて、そいでたぶんあいつが何とか、ほら――」と身ぶりをふる。「完全には――」また身ぶりをする。友だちについてここで言おうとしているようなことは、どう表現していいのかわからなかった。
 それをチラッと見て、ドナは言った。「あなた、言語中枢がイカレてたりしない? あの――えっと、なんてったっけ――後頭葉にあるやつ」
「しない」彼は猛然と答えた。
「どっかイカレてるとこ、ない?」と女は頭をたたいてみせた。
「ないよ。ただ……だからさぁ。ああいう糞クリニックの話をすんのがつらくってさ。ああいう神経性失語症クリニックってのが嫌いなんだよ。前に、入院してるやつに面会にいったんだけど、そいつは床をワックスがけしようとしててね。クリニックのやつらに言わせると、そいつにワックスがけなんかできない、って言うか、やりかたがわかんないはずだって……でも、それでもそいつはやろうとし続けてさ、それが哀れで。それも一時間やそこらじゃないんだ。一カ月たってもう一回行ってみたら、まだやってるんだ。何度も何度も、前に面会に来たときと全然同じで。そのままのとこで。自分がなんでワックスがけできないのかもわかんないの。いまでもあの表情は忘れらんない。自分のやりかたのどこがおかしいのか思いつこうって頑張ってれば、いずれ正しいやり方がわかるはずだって思いこんでてさ。『おれのやりかた、どこがまちがってる?』ってきき続けんの。でも、教えようがないんだ。って言うか、みんな教えたんだぜ――オレだって教えてやったよ――それでもそいつにはわかんないんだ」
「脳のレセプター部は、真っ先にやられるところだって書いてあった」ドナは平然としていた。「誰かの脳で、効きかたが悪かったとかいうふうなとき、キツすぎたとかそんなんのときにね」目は前を行く車を追っていた。「あ、見て、あそこ、二連装エンジンの新型ポルシェ」とはしゃいで指さした。「すっごーい」

面会は貴重です。娑婆に戻った面会者にとって。

頁71
(前略)かつては個人用住宅だったが、いまではこの地域のリハビリ職員が精力的に活動しているのだ。彼としては、助けを求める入所希望者のふりをしてリハビリ施設にインチキこいてもぐりこむなんてのは気に入らなかったが、これしか方法がなかった。もし麻薬捜査官としての身分を明らかにして、だれそれを探してると言えば、リハビリ職員――少なくともその大多数――は成りゆき上こちらを避けるような行動をとるだろう。やつらはファミリーの一員がサツにつつきまわされるのを嫌っているし、首をつっこめばそれを思い知らされることになるだろう。元中毒患者たちは、ここにくれば安全なのだということになっていた。入所にあたって、リハビリ職員が必ず公式にそう告げることになっていた。(中略)
 かたい木のドアをあけて、アークターはなかに入った。
 陰気なホールとラウンジが右手にあって、男どもが何か読んでいる。奥のつきあたりには卓球台があて、その向こうが厨房。壁にかかったスローガンは、一部手書きで一部印刷。「本当の失敗とは他人を見捨てることだけ」などなど。音も活動もほとんどない。
(中略)
 彼は太いしわがれた恥ずかしそうな声で言った。「おれ――もうダメなんだ。なんかゴチャゴチャになっちゃってて。すわってもいい?」
「うん」と女が手をふると、平凡な見てくれの男が二人、平然とした様子で現われた。「この人をすわらせてあげて。それとコーヒーね」
 こりゃダメだ、と男二人にひきずられてケチくさいパンパンのソファに向かいながらアークターは考えた。さえない壁だ。さえない低級な寄付のペンキぬり。こいつら寄付に頼ってるからな。予算獲得がままならないせいだ。「ありがと」彼は耳ざわりな震える声で、まるでそこにいてすわれるだけのことが心底ありがたそうに言った。「ふぅ」と髪をなでつけようとした。が、うまくいかずあきらめるふりをした。
 女がこっちの真正面に立って、断言した。「あなた、ひどいナリだわね」
「まったくだ」と男二人が、意外にも吐き捨てるような口調で言った。「ゴミくず同然だぜ。あんた、何してたんだい、自分のクソにでもまみれてたのか」
 アークターは呆然とした。
「あんた、誰だい」男の一人が詰問した。
「そんなの見りゃわかる」ともう片方。「しょうもないゴミの山から来たクズ野郎だよ。見ろ」とアークターの髪を指さした。「シラミだ。だからさっきからかゆいんだよ、ジャック」
 女がそれをおさえ、落ち着いた、だがいささかも温かみのない声で言った。「なんでここに来たの?」
 心のなかでアークターはこう思った。
(中略)おれはサツだ。そして貴様らはバカだ。一人残らず。だが、そう言うかわりに卑屈な態度で口ごもった。向こうの期待どおりに。「いま何て――」
「ええ、コーヒーはあげるから」女があごをしゃくると、男の一人が諾々と厨房に向かった。
 間。そして女がかがんでこっちのひざにふれた。「気分悪いでしょう」と優しく言う。
 うなづくしかなかった。
「いまの自分が恥ずかしくて情けないでしょう」
「うん」彼は同意した。
「自分をこんなに汚しまくって。肥だめね。来る日も来る日も注射針を自分のケツにつっこんで、自分のからだに――」
「もうやってけなくなっちゃったんだ」とアークター。「もうここしか望みはないんだよ。
(中略)
「ファミリーにはあとで会えるわ。資格が認められればね。うちの基準を満たしてないとダメなのよ、わかる? 最初の基準は、心底なおりたがってることよ」
「それはだいじょうぶ。心底なおりたい」とアークター。
「ここに入るにはホントにひどくないとダメよ」
「ひどいよ」

(中略)
「超つらいわよ。一晩じゅう枕をかじって羽をだしちゃって、起きたらあたり一面羽だらけになるわよ。けいれん起こして泡をふいて。病気の動物みたいにウンコまみれになって。それでもいいの? ここじゃ何もあげないのよ、わかってる?」
「もう何もない」こりゃ最低だ、と思い、落ち着かずいらいらした。
(中略)
(略)もう時間の無駄なのがわかった。まったく、こりゃダウンタウンの探りよりひでえ。それでこの女はツユほども漏らしやがらん。ここの方針か。まるで鉄の壁だ。いったんこの手の場所に入ったら、娑婆にとっては死んだも同然。(中略)逮捕状を持ってたって――そんなもの効きやしない。リハビリ職員たちはすっとぼけたりグズグズしてみせて、その間に、ここで警察に追われているような連中は、みんな裏口から抜けでたり施設のなかにとじこもっちまったりする。だってここの職員たちも、もともとは中毒患者だったんだから。それに、法執行機関のほうでもリハビリ施設を荒らすのは嫌っていた。(中略)
(略)くそっ。彼はがくがくと立ち上がり、「おれ、帰る」と言った。男二人が戻ってきたところだった。一人はコーヒー・カップを持ち、もう一人はパンフレットを持っている。説明書の類にちがいない。
「あんた、ケツまくる気?」女が横柄に軽蔑をこめて言った。「自分の決断をとことん貫くだけの根性もないのね。ヤクをやめるんじゃないの? こそこそ逃げ出す気?」三人とも怒りをこめてこっちをにらんだ。
「今度」とアークターは出口のドアに向かった。
「ヤク中のくず」と女が背後で言った。「根性なし。いかれぽんちの能なし。逃げたきゃ逃げなさいよ。それがあんたのご決心なら」
「また来るから」アークターはイライラした。ここの雰囲気は息苦しくて、帰ろうとするとそれがなお圧迫感を増した。
「こっちはおまえなんかに来てほしかねえぞ、根性なしめ」と男の一人。
「土下座することになるぞ。はいつくばって土下座させてやる。それでも今度は入れてやんないかもしれないぜ」ともう一人。
「今度どころか、いまだって入れてやんないから」と女。
 ドアのところでアークターは立ち止まり、振り向いて糾弾者たちと向き合った。何か言ってやりたかったが、どうしても何一つ思い浮かばなかった。こいつらのせいで頭が空っぽになってしまったのだ。
 脳がはたらかない。思考も反応もやつらへの解答も、つまらないとんちんかんなものですら思いつかなかった。
 変なの、と思ってまごついた。
 そして建物をあとにして駐車した車に戻った。

中島らもが『今夜、すべてのバーで』で再飲酒する場面、
何が物足りないかというと、内科入院なので、こういった軋轢障壁がなく、
だから最後までそうだったんだ、と思えてしまうところがあります。
エイミー・ワインズバーグの映画『エイミー』でも、
最初にガッツリ病院や施設に入院するチャンスを、父親が介入して、
ワヤになってしまう場面があり、救われない人の多さにぞっとします。

頁85、レギュラーガソリン、リッター27セント。安くていいなあ。
頁221、サザンコンフォートを、山形はサザンカンフォートと記しています。
浅倉は頁256ですが、こちらもカンフォート。で、Wikipediaも、
輸入元アサヒビールも、カンフォートでした。わたしは何故、
コンフォートだと記憶してたのか分かりません。映画も未見。
サザンカンフォート Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%88

頁221
「あれ、ホントいいハッシシでしょ、ね?」とドナ。
 ボブ・アークターは言った。「あのハッシシは黒くてベタベタしてる。つまり、阿片アルカロイドをしみこませてあるんだ。きみの吸ってんのは阿片だよ、ハッシシじゃない――わかってんの? だからあんなに高いんだよ、わかってんの?」自分が声高になるのが聞こえた。足をとめた。「きみはハッシシ吸ってんじゃないんだぜ、お嬢ちゃん。阿片を吸ってんの。ってことは、中毒が一生続いてその代償に……その『ハッシシ』と称する代物って、キロいくら? それできみは、吸ってはうつらうつらばっかしてて、車のギヤも入れられず、トラックのおかま掘ったり、毎日仕事に出かける前に吸わずにいられなくなって――」
「いまでもそうよ。仕事に行く前に一服。それと昼と、家に帰ってすぐのとき。だから売人やってんのよ、ハッシシ買うから。ハッシシって最高。もうハッシシで決まりよね」
「阿片だよ。その『ハッシシ』とやらって、いまいくら?」
「キロ七千ドルくらい。いいヤツだと」
「ゲゲッ! ヘロイン並じゃん!」

21世紀のケミカル地獄、だっぽーナントカを先取りした描写かなと思います。
93しかやらない、オレはナチュラルオンリー。ケミカルは腦をハカイするじゃん、
と言いつつ、お茶っぱにしみこませたケミカルにやられてオワコン。

頁222
「あたし、針はやんない。やったことないし、これからだって。針でやると、何やってもからだが半年しかもたないもん。もう水道の水を射ってもそうね。中毒になって――」
「きみだって中毒になってる」
 ドナは言った。「みんなそうでしょ。あなたは物質Dをのむ。べつにいいじゃん。いまさらどうでもいいじゃん。あたし、しあわせ。あなただって、しあわせでしょ? 毎晩帰ってきて、上等のハッシシが吸える……これ、あたしのトリップ。あたしを変えようなんて思わないで。ぜったいあたしを変えようなんてしないで。あたしも、あたしの生き方も。あたしはあたしよ。ハッシシでいい気分。これがあたしの生活」
「歳とった阿片中毒の写真見たことない? むかしの支那のやつとか? それとかいまのインドのハッシシ吸いが、歳とってどんな姿になってるかとか?」
「長生きするつもりはないわ。なによ。長生きなんかしたくないもん。あんた、したいの? なんで? この世に何があるっての? それに見たことある――チッ、ジェリー・フェイビンはどうよ。物質Dにハマりすぎてさ。ホント、この世に何があるのか教えてよ、ボブ。この世なんて、ただの来世の前の停留所よ。あたしたちが罪を背負って生まれたんで、罰を与えようって所よ――」
「モロ、カソリックだなあ」
「この世では罰を受けてるんだから、たまにトリップしてここから抜け出せるんなら、ケッ、やりゃあいいじゃん。
(中略)
「ばか。大ばか野郎」
「そうよ。あたし、早死にするわ。どうしたってそうよ。何をするにしても。
(中略)
「話を聞けよ」ボブ・アークターはドナの両肩をつかんだ。女は本能的に身を引いた。
「いや」

このくだりの前の部分でも、女ならではの用心の個所があります。
死んでもいいとそれは矛盾しない。絶対に。

で、こんだけ読むと、下記の山形評にうなづけてしまいます。

頁400 1 作者の評価――反ドラッグと自伝性
(前略)「『暗闇のスキャナー』を読んだ人は、一生ドラッグをやろうなんて絶対に思わないはずなんだ」とかれは語る。
 だが残念ながら、そう思っているのは本人だけのような気もする。実際、ある人は『暗闇のスキャナー』を読んで、そのあまりの悲痛さに「一九八三年の日本では、アルコール・ヘッドしかないから、工業用アルコールで肝臓をイカレさせるしかなかった」そうだ(ソーマ・ヒカリ「ディックのバディ&ソウル・ブルーズ」、『あぶくの城』所収より)。アルコールは広義のドラッグであり、また「アルコール・ヘッドしかないから」という以上、それ以外のドラッグがあればこの人物は喜んでそっちを使用したであろうと推定できる。つまりこの読者は、本書を読んでますますドラッグにはしりたくなってしまったわけで、ディックの意図が完全に失敗していることが証明されている。

アルコールしかない、は大嘘と思いますけどね。覚せい剤も脈々とあったし、
ハイミナールだかハルシオンだかしりませんが、処方薬の濫用というか、
不正流通も絶えずあったはずなので。

どちらの訳もタイトルの「スキャナー」はそのままカナにしていて、
スキャンって、当時は医療くらいにしか使ってなかった言葉なのに、
よう使わはった、と思いました。山形は、愚直に訳せば、おぼろげな、
盗視聴機の一人、になると書いてますが、サンリオの先行訳も、
スキャナーなので、スキャナーにしてるのかなとも思います。

最後のほうは、オール阪神くんが、ポピーポピーと叫ぶような、
牧歌的な場面になり、私は、高野秀行のアヘン王国潜入記の、
アヘン畑の草取りの場面を思い出します。アヘンはちゃんと根づかず、
雑草がとれずアヘンを払ってしまう(払うともう根づかない)
ミスを繰り返す高野とそれを温かく見守るアヘン農民たち。
スキャナー・ダークリーは、アメリカの工業化された農業での、
麻薬栽培ですので、そういうぬくもりはないのですが、それでも、
牧歌的な、ものづくりの雰囲気は、まだあると思いました。以上

アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

【後報】
訳者の山形浩生サンは、検索したら、バロウズも訳してるんですね。
そりゃ舌鋒は鈍りがちか。私はバロウズ未読ですが、全然読むつもりないです。
(2017/8/29)