『サランヘ 사랑해 夏の光よ』"SALANGHAE ( I love you ) Summer light" by Anai Fumihiko 読了

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「半自伝的作品」とか、自伝的小説ということでしたので、三人称で書いてるのかと思いましたが、別にそういうことはなく、自伝です。作者がめんどくさい人だったのか、幼少期の大人社会を描いた部分に、推測がまじっていることにこだわって、それであえて創作というレッテルをはって発表したのかとも思います。

サランヘ夏の光よ (文藝春秋): 2009|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

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この人の著書『ベ平連と脱走米兵』を読んで、ほかの作品も読んでみようと思って読んだ本。近隣の図書館にはこの人の本は、主婦とか葬儀関連がありました。この本は、他館本リクエストすれば県内のどこかからか来たのでしょうが、その時はその手を思いつかず、日曜の朝に日本の古本屋でポチりました。

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文藝春秋刊 定価(本体1524円+税) |終戦の二年前の夏、朝鮮で二十七年の生涯を閉じた母。幼い兄弟は、戦後の混乱のなか父と九州へ引揚げてきた。そして、三十年あまりたち、〈私〉は韓国を再訪。母の面影と幼い日々の記憶を求めて〈私〉は歩く。サランヘ(愛してるよ)―海峡をはさんで往還する愛と記憶の物語。| サランヘ(愛してるよ) ――海峡をはさんで往還する愛と記憶の物語 「母ちゃん、こんなところにおったのか――」 「この二人の兄弟は、早くに母親を亡くしてね」 と、夫人へ話しかけている。私は、およその内容を聞きとることが できたけれど、 「お母さんはとてもきれいな方で……」 と金さんが言ったので、私はあわてて話に分け入り、 「アニヨ(いいえ)、母は病気で、いつも顔色が悪かったんです」 と、夫人に付言した。(本文より)

書き下ろし。2009年8月10日初版。装丁 野中深雪

三部構成。第一章が、筏橋というチョルラナムドのちいさなまちで過ごした幼少時代の思い出。終戦まで。第二章は、引き揚げ。正規の帰還船でなく、帆をかけて沿岸沿いに航行するような船を、現地邦人がお金を出し合って雇って、非正規に航行した記録。同じことを現地の人がやったら密航ですが、引き揚げなので、まあ、もにょもにょという。室戸台風に遭遇して、ほとんど同じ航路を進んでいた現地人の密航船は難破して全員死亡して、死体が漂着したとか。文彦少年と弟の信彦少年は、やもめになった父親が、子連れの邦人寡婦とデキていて、そっちを守るためそっちに同行してしまったので、ヨメの葬儀後マゴの世話をするため渡韓して帰還出来なくなっていた祖母にひきつれられて船に乗り、対馬漂着を経て、非正規ゆえ博多接岸を避けて佐賀の唐津に上陸し、お祖母さんは、心労がたたってというか、無事ぜんいん実家につけたことにほっとして、それから一ヶ月もたたないうちになくなります。

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筏橋駅 - Wikipedia

ハングルでは「ポルギョ(벌교)」なのですが、戦前の現地邦人は「バッキョウ」と日本語の音読みで読んでいたとか。また、歯科医だった阿奈井家に雇われていた金さんはキムでなくキンさんと呼ばれていたそうです。りしょうばんライン、ぼくせいき、きんだいちゅうじけん、ぜんとかん。チョーヨンピル、ノテウあたりから相互読みが普及し出す。

帆前船に乗ることになったのは、正規の帰還船がああだこうだでなかなか出発しなかったので、しびれを切らした祖母が、全員連れて一回帰宅してしまったからです。おかげで沿岸航行しか出来ない民間船で、二度も寄港地の民間防衛的自警団から勝手に臨検されたりします。

第三章は、成人した文彦少年が、三十路を迎えたころ、1970年代、まだ戒厳令下だった韓国の筏橋を再訪するところから始まって、執筆時点までの韓国とのかかわりをたんたんと語ってゆきます。韓国とのかかわり以外、紙数の関係でか、いろんなことを省略して、そぎ落としてるので、脳溢血から回復後、書き残しておかねばで本書を執筆中、別れた邦人のオクサンが米国ニューメキシコから電話してきて、別れたオクサンは米国人と再婚してそこに住んでいて、再婚相手との間にクアナ(Quana)という大学生の娘がいることが分かります。クアナはアメリカ先住民の名前からとったとか。本書刊行の六年後、文彦サンは誤嚥性肺炎で逝去し、喪主は弟の信彦サンです。本書にもいたるところに登場する。

文彦サンは毎年夏に開催される韓国のハンセン氏病関係のワークショップの日本側参加者のひとりであり、早稲田の奉仕園ほかでハングル講座を受講しています。実は私も奉仕園のハングル講座は受講したことがあるのですが、90年代の話で、もうすでにそれなりに仕組みも出来上がっていました。本書には、80年代、黎明期といってもいい時代、それまで韓国の小学生にしか教えたことのない教師が、成人日本人にハングルを教えることになった、ういういしい記述があります。この先生は、私が教わった人とは、姓がちがうので、別人です。私が教わった人は、李サンで、「私はセージョンテーワン(世宗大王)の子孫です」と言い放っていたので、それを韓国人の知人に話すと、ウケるかと思ったのに、みんなしらけていました。いまだにその意味は分からない。みんなチョルラドだったからだろうか。

文彦サンは渡韓するにあたって父親から、「怖くないか」ときかれます。(頁147)また、小学校の教師だった母親の教え子(日本でパチンコ店経営)に会った際は、「こう言っては失礼になるかもしれませんが、あなたのお父さんの世代の人とは、とても一緒に飲んだり、歌ったりはできません」「わかります。当然だと思います」「それは判ってほしい(以下略)(頁186)という会話をしています。マンガ嫌韓流で戦前の韓国統治全否定はおかしいetc.という主張が出たのが2005年ですから、その四年後にこういうことを書くというのも、書いてみたくなった気持ちというのも、分かる気がします。

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文藝春秋刊 定価(本体1524円+税) |終戦の二年前の夏、朝鮮で二十七年の生涯を閉じた母。幼い兄弟は、戦後の混乱のなか父と九州へ引揚げてきた。そして、三十年あまりたち、〈私〉は韓国を再訪。母の面影と幼い日々の記憶を求めて〈私〉は歩く。サランヘ(愛してるよ)―海峡をはさんで往還する愛と記憶の物語。| サランヘ(愛してるよ) ――海峡をはさんで往還する愛と記憶の物語 「母ちゃん、こんなところにおったのか――」

この母親の教え子の人は、いわゆる戦後渡航で、法務大臣の裁可で永住権を得たクチの人ではないかと思うのですが、文彦サンの母親の旧姓を通名にしていて、そんな通名のつけかたもあるのかと唖然としました。恩師の名字を名乗る。が、う~ん、考えたら、あるかもしれない。命を救ってくれた医師の名字、施設の教導官の名字。上の、母親を観念的に見つける場面は、そのパチンコ店の従業員通用口のゴミ箱に母親の名字が書いてあったのを見つけるシーンです。「母ちゃん、そんなところにおったのか」そげなとこにおるわけなかと。

ワークキャンプの日本側主催者も柳川という人で、ハングルを解する人ですが、特にそれ以上書くつもりがなかったのだと思います。書いてません。人となりなんかは書かれていますが。

半島追憶ものはよくありますが、自身がハングルを学んで捲土重来は意外と少ないと思います。だいたいどこでも七十年代八十年代ですので向こうの人が日本語で話しかけてきて、その語彙と流麗さに負けるわけですが、それでも邦人がハングルを学んで、それなりにカンバセーションしようとした記録というのは、読んでいてよいこころもちがするものです。関川夏央もそうした邦人の一人だったはずですが、どうなったのか。以前、新宿の食道園のオモニというかオバーサンのエッセー読んでたら関川夏央の名前が出てて、最近ハングル界隈はおみかぎりでしょうか、みたく書かれてておかしかったです。

筏橋警察署の人が、光州事件は本書ではオミットされてますが、在日コリアンが北傀の間諜として施設や街並みの写真を撮りに来たのではないかと連行尋問する場面なども如何にも往時だなあと。カンゴクからのおてまみ。それで、やっぱり相手が日本語ぺらぺらなのに負けてはいけないと思います。少しはハングル知っておかないと。二枚舌にころっといかれて、イルボン叩きの悪口(の切り取り邦訳)聞いては嫌韓気分、同じ相手が日本語で褒め殺ししてくるとマウント気分の往復だけで終わる。チニルパ狩り以降はそうそう褒め殺しもないかと思うのですが、意外と廃れない。

今はグーグル翻訳がかつてとは比較にならないほど進化しましたので、とっかかりさえ作れれば、あとはツールの力を借りれると思います。

文彦サンの母校だった小学校は女子高になっていて、今世紀はさすがに取り壊されて新校舎になっているのですが、それまでは何度も渡韓のさい、母校に行っていて、无法离开的教室という感じでたたずんでます。初回は地元警察の副署長同行。

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「この二人の兄弟は、早くに母親を亡くしてね」 と、夫人へ話しかけている。私は、およその内容を聞きとることが できたけれど、 「お母さんはとてもきれいな方で……」 と金さんが言ったので、私はあわてて話に分け入り、 「アニヨ(いいえ)、母は病気で、いつも顔色が悪かったんです」 と、夫人に付言した。(本文より)

本書にはさんであった2009年8月の文春新刊広告を見ると、赤川次郎の幽霊シリーズ21冊目、池袋ウエストゲストパークの9作目、在日中国人もの、菊池成孔がほかの人と共著した『アフロ・ディスティニー』、佐々木譲『廃墟に乞う』などが見えます。それからシリン・ネザマフィの『白い紙 / サラム』本書がサランヘで隣がサラームなので、意図して並べたのか偶然なのかと愉快でした。

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谷間の灯ともし頃 - Wikipedia

呉敬雲作詞、辺赫作曲の「サランヘ」という歌は、ケー・ウンスクほかいろんな人が歌っているようですが、うまいこと動画が出ませんでした。柳川義雄対訳の歌詞が本書に収録されています。以上

【後報】

コロンブスを描いた映画1492で、最後コロニアを焼き討ちする原住民の中、フライデーみたいな少年がコロンブスに、"Why don't you speak our language?"と吐き捨てて密林に消える。

日暮れのともしび。女子高の軍事教練。手旗信号。「ゴハンタケタワヨ」

(2021/12/18)

【後報】

はさまってた文春の新刊広告。

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(2022/1/6)