『移民の詩 大泉ブラジルタウン物語』"Poesia de Imigrantes. : História da cidade de Oizumi Brasil" "Immigrant Poetry. : Oizumi Brazil Town Story" 読了

大泉町観光協会で買った本のうちの一冊。紙より電子版の方が三百日元ほど便宜。

books.cccmh.co.jp

装丁・本文デザイン 轡田昭彦+坪井朋子 イラストレーション 今中信一

版元もアマゾンも帯付きの表紙画像でしたので、帯をとった表紙をおいておきます。本文中にもとりあえずサンバの記事があり、「日系人はサンバなんかしない」「恥ずかしい」等々のとうの日系人じしんの声が、「大泉の観光資源はサンバしかない」のステレオタイプなものの見方による村おこしと交錯するように描かれ、日韓ワールドカップブラジル優勝時のハメ外しによる国道封鎖状態、路駐ボコボコ、群馬県警機動隊出動による冷や水盛り下がりと、その後徐々に空気を読んでの復興が記述されるのですが、私もむかしブラジル人から、いわゆるボンキュッパ体型でないとサンバはむずかしい、小柄な子は、ね、みたいな話を聞いていたので、「なんちゃってサンバ」の章題には大いに意を得たりの思いでした。

そういう前提でこの女性の表紙を見ると、感慨深いものがあります。本書94ページに、当時大泉警察署にひとりだけ在籍していたポルトガル語を解する警察官(後天的にポルトガル語を学んだ邦人)から著者の水野サンが、「Japonês Garantido」(信頼出来る日本人)という言葉と共に、ブラジルにおける日系人の割合は全人口の0.8%だが、最高学府のサンパウロ大学では学生の15%を日系人が占めるという、日系人の長い年月をかけた努力の成果の一端を教わる箇所があり、私はこの表紙を見てそれを想起しました。

もっとも、本書では、ブラジルの大学は学費無料なので日系人は日本で子弟の高等教育のための積み立てをついついライフプランから抜いてしまい、しもたー!!が多発したとも書いてます。また、「ジャポネス・ガランチード」は、産経新聞なんかも額面通り受け取ってそのまま書いてますが、ニッケイ新聞によると、これは日系人内でしか通用しないジャーゴンで、そのままポルトガル語としてブラジル人に使ってもチンプンカンプンで、そのまま口真似されて揶揄われたりして悔しかったとか。インターネット時代はいろいろ検索出来て、フラットでいいですね。

【リオ五輪異聞】「ジャポネス・ガランチード」=日本人は信用できる 日系移民の労苦が勝ち取った信用力を生かせ!(1/3ページ) - 産経ニュース

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ペルー人がロモサルタードと日系社会について熱く語るのとうらはらに、ウィキペディアではロモサルタードをペルーの中華料理(チファ料理)として一刀両断、にも似た味わいを感じます。本書は出だしに、まず強烈なインパクトのある記述で読者のハートをわしづかみにしようという手法を使っていて、ファビオというアル中みたいなブラジル人青年を出します。酒が入ってないとサウダージ。以前知っていたフリオというペルー人を思い出しました。あと、リスタートプラザで会話した人。

水野龍哉 » 自由大学 FREEDOM UNIV

水野サンはライターとして相当に手慣れた方だと思うのですが、著書はこれと、電子版の讀み物が少し出るだけです。数十年に渡って、特に英国を定点観測されていたというだけに、そこはちょっと意外。

そういう老獪なライターなので、何も仕掛けていないわけがなく、「共生」「多様性」「SDGs」「ロモ・サルタード」ということばが並ぶ(一部並んでません)本書にアレルギ―反応をしめすであろう邦人やオールドカマーがまずひっかかるよう、産業まち大泉町の成り立ちのかしょで、「戦前は零戦をつくった中島飛行機が工場を構え」(頁11)と書いています。私はまんまとだまされたので、「残念閔子騫!!!ゼロ戦は三菱で中島は隼ですよーだ!!」と脊髄反射してしまいました。検索すると、ゼレシキポロウ、否零式艦上戦闘機の栄発動機は中島製だそうで、「ゼロファイターをメイドしたナカジマエアプレーンハウナイスじゃけぇ!」と言ってもあながち間違いではありません。

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そんな本です。観光協会には、サンバ以外に、ペルーのマリネラという舞踏団体のチラシもあって、それって愛川町にもあるのかなと思いました。常春の国マリネラ

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マリネラ (舞踊) - Wikipedia

愛川町にも聞きに行こうと思っているのですが、カタールワールドカップ予選でオージーのへんなキーパーに負けましたし、川遊びで水難もあったようなので、静かに行こうと思います。

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[B!] 相模川で行方不明になった30代男性 川の中で見つかるも死亡|NHK 首都圏のニュース

38歳の日系の方。それはそれとして、ペルーのレストバーには、まま、ダンススペースがあるようなのですが(厚木と愛川一軒)下のような踊りもしたりするのだろうかと、それも聞いてみたいです。

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話をもどすと、本書はバブル前期、ノーヴィザで日本に来れたバングラディシュ、パキスタン、イラン(順次ヴィザ必要となる)の不法就労にかわり、日本の純血主義との折衷案も兼ねた打開策として、平成元年(1989=天安門の年)入管法を改正し、日系三世までを定住者として受け入れる方針を示したことに呼応し、当時極度に経済と治安が悪化したブラジルから、日系人たちが足取り軽く腰も軽く、ひょいっと、それまでブラジルで築き上げてきたものを或る者は簡単に捨てて、次なる新天地として日本を目指した、てな出だしでした。私はこの時代はあまり知らないというか、本厚木の駅前にそぞろペルー人がつどって情報交換してた印象が強いです。

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上の本は京都時代に読んだ本で、のちにラジオ体操協会の本も書いたライターさんの本。季節工の潜入取材をすると、「いい年してまだこんな仕事してて、将来どうするのかね」と正規工から陰口言われたそうで、しかしその後竹中平蔵が日本総非正規社会へと舵を切るとは、その正規工も予想だに出来なかったにちがいありません。

頁11

 当時の入国管理法の改訂に関わった法務省官吏の話では、自国民と血縁関係や婚姻関係にある外国人が在留資格に関して優遇されるのは他国では当然のことで、日本はそうした面の法整備がひどく遅れていたという。

私も台北で、例のタイ北部の国民党残党関係の出稼ぎが暮らすバラック宿舎の近くの沖縄人経営ゲストハウスに泊ってたので、日本以外でもそうでヤンスというのは分かります。ぜんぜんそんな血縁と関係ない、コロンビア人の立ちんぼが大久保などにたくさんいて、浅草のひさご通りで、あるイスラエル人女性(アクセ売りかなんか)が夜中、おかまの立ちんぼから「あんたたちがいるからこっちが商売あがったりなのよっ」と強烈なフックを下腹部にお見舞いされたと打ち明けられたり、これもギロッポンのコロンビア人ホステスが多数暮らすゲストハウスの一角に、ペルー人男性が暮らしていて、私はこの人とときどき話をしていたのですが、彼はペルーのジャングルで金鉱を探していた時、世界は七つの頭を持つヒドラに支配されているという天啓を受け、その啓示を世界に広めるべく、アルバイトの傍ら狭い部屋で毎日執筆にいそしんでいました。彼の完成した本を読む機会は訪れてませんが、完成したことを祈ります。

水野サンは2013年くらいから、西小泉に通って、そうした時代から現代に至るまでの連綿としたこじんこじんのライフヒストリーを聞きとり、書き連ね、本書にしています。リーマンショックでは半数近くが失業や帰国の憂き目にあったそうですが、そのせいか淘汰洗練というか、ゴミ出しやらなんやらについて、折り合いをつけられる人間が多くなっているということは書いてあります。私がウェブで読んだコラムとも共通する、同じブラジル人コミュニティでありながら、海浜の愛知浜松と内陸の西小泉のちがいも、ほぼ同じことが書いてある。観光協会の人は、三十年暮らしてる、その月日を強調してました。どっちがでなく、両方言えると思います。

2013年と2021年ならあまり変わらないかというと、観光協会の場所もちがいますし、二軒のブラジルスーパーのあいだのレストランは何故か邦人客目当ての中華系ファミレス(バーミヤン?)だったそうで、現在のパウリスタなのかなあと読みました。スーパー内のイートインは、そうすると別の店になってるのか。水野サンがあししげく通うブラジルバーは、前を歩いてるのですが、それと気づきませんでした。グーグルマップでもコメント8件しかついてないし。駅南のレストランは現在では名実ともにペルーレストランみたいですし(開いてるかは知らない)

頁56に、2013年当時在日ブラジル人なら誰でも知ってる情報誌として、「Bem-vindo! ブラジル街」というコミュニティ誌が出るのですが、2022年の今は違う気がします。

BemVindo!ブラジル街とは?

Bem-vindo! ブラジル街 - ホーム

デザイン制作事例の紹介|Bem-vindo!ブラジル街

今は、右のアルタナチーバ(と読むと観光協会の人に聞きました)という雑誌が、あちこちにある、のかなあ。綾瀬のスーパーも、よく見たら一軒だけでなくもう一軒もあった。

その雑誌は、マンガコーナーだけ、同じマンガを日本語とポルトガル語両方で掲載していて、それ以外はポルトガル語オンリーです。上のタルシラは、ブラジルを代表する画家なのかな。日本語であってもそういう予備知識の注釈はありません。分かれとしか。

www.moma.org

頁125に、ギロッポンの住人なのに、わざわざ週末になると、こっちに来て飲み歩く邦人青年が出ます。相武台前でカンボジアポップスを歌う北関東の人とか、ヴァンフォーレサポになった元レッズサポとかを思い出しました。ずっとそれをやることは出来ないし(引っ越さない限り)よい思い出になることを祈念します。

本書はちゃんとしたライターのルポルタージュなので、後半になると、前述の警察関係者や、当時の町長さんの談話、元組関係者が語る日系ギャング団が出ます。ガマンして共生とか多様性とかGOALSとかときめきメモリアルとか読み続ける(書いてないものもあります)と、ご褒美がある感じ。税金バックレ帰国なんとかせなとか、日伯犯罪者引き渡し協定結べとか(現在は結ばれてるんでしょうか)面白いです。特に日系ギャング団の記述は面白い。世代交代があって、初代のブラジル流儀をそのまま持ち込んだ無双連中から、二世の各国子弟邦人子弟混成集団(ただの族?)までのクロニクルが語られます。銃持つのが当たり前のブラジルギャングの中で生きてきた人間が日本に来たら、こりゃチョロイぜは当たり前なんだろうなあということですが、あまりにヌルいので、だいたい国に帰って今は刑務所にいるとか、そういうふうに書いてあります。元祖半グレ(今とは意味が違います)残留孤児二世三世の白竜なんかも東京東部で、しかし同じはずのストーリーがくり返し繰り返し語られると、そのたびにふくらんだり、盛ったりしてる気がしてきてしまう(最新バージョンでは福建系ともつるんでたことになっている)、そのプロトタイプを読んだと思いました。同じような話が今後もときおり思い出したようにメディアに出てきて、みなカポエイラやブラジリアンジュージュツかじってて銃に撃たれたりしながら生きて来たので、そりゃ日本では無双だろうみたいな話が、少しずつ盛られながら、膨らみながら語られて、伝説になるんだろうと思います。

私の先祖も、給料がぜんぶ現ナマ支給だった時代、給料日を狙われて、会社の正面玄関にバイクで直接突っ込むという荒っぽい映画みたいなやり口で、行員複数が運んでいたジュラルミンケースをぜんぶかっぱらわれるということがありまして、まあそれはペルー人なんですが、読んでて、その時代の空気をちょっと思い出しました。確かその事件は犯人捕まってません。

日系人たちが日本を目指した理由のブラジルの治安悪化の個所には、やっぱりひんぱんなホールドアップや押し込み強盗、元祖オレオレ詐欺(指示者はすでに逮捕済みで、獄中からオレオレ詐欺を指示)の記述があります。ペルーには反政府武装組織(毛沢東主義)のセンデスルミノソがいたし、コロンビアには麻薬組織メデジンカルテルがあったし、陸続きだから銃器の流通もそれなりだったんだろうなあと。

どこだったかな、頁119に、教会で、ブラジル人や日本人、韓国人の信者たちと話す女性の話があり、教会なら韓国人が集ってもおかしくない気もしますし、でも韓国人は韓国人向けの教会を自分たちで持って、そこに行くことが多いのではないかとも思いました。西小泉の韓国人社会はまだ分かりません。中国人社会はもっと分からない。観光協会は、一般の見学者はさほどみたいですが、カンケー者や知りたい人はたくさん来てる感じでした。

私は西小泉の宿に泊まったことがなくて、それは宿がツインルームしかないからですが(シングルで泊まるとベッドひとつ使わないでシングル料金で泊まれるようにも見えますが、まあ遠慮して)水野サンはそこに泊ってるようで、そこからスーパーのほうに自転車で行ってたようです。私は太田の宿から西小泉まで太田市の無料レンタサイクルで往復出来たら(しかし返却時間は夕方五時)と皮算用して、雨でおじゃんが多かったですので、そこは、今後また行くとすると、ネックだと思います。神奈川県でもたいがいいろんな民族がいるので、ブラジルを求めて、また西小泉に行くことがあるんだろうか。

元気かどうかは別として(リスタートプラザとか別に元気でもないと思う)以上