何で見たのか忘れましたが、最近ウェブの記事(たぶんヤフー)(追記:ちがうかも 2025/2/16)を見て読もうと思った本。私以外にも同様のシンクロニシティーの人がいたようで、リクエストが入っていたので、さっさと読み終えます。
下記の記事が検索で出ましたが、これを見て読もうと思ったわけではぜんぜんないです。
パートナーの人の本で、ボーツー先生はいまどき珍しい直筆原稿派だと知り、そしてこうして筆跡を見るとまあまあ読みにくいクセのある字を書くので、将来仕事が続けられなくなるかもしれない不安の中には、悪筆は解読してもらうものという常識が覆って、作家による編集者ハラスメントの一環になったらどうしようというのもあったかもしれませんということはないです。ボーツー先生逝去の2020年当時まだそこまでハラスメント被害者は大切に守られていなかった。
ひらがなはプレ丸文字世代なので読めますが、漢字がときどきおかしい。この「日記」が私には「田攷」に見えて仕方なかった。だいたい人は、かんたんな字ほど崩すので読みにくくなります。「内」が「冘」に、祐三が中澤佑二_に見えてくる。
編集 杉江由次 装丁 松本孝一
毎日新聞2005年4月3日㈰から2006年3月26日㈰までの毎日曜日掲載。ただし、2006年1月1日元日と2006年2月26日㈰は休載。後者については、2006年4月2日㈰掲載の「連載を終えて」で、冬季五輪の絡みでスペースがなくなったせいで折角の2.26事件「その時」ガーとブツクサ言ってますが、元日休載に関しては言及無し。ここ数日読んだパートナーとエクストラパートナーの本で、ボーツー先生はそういう人間なのだなとうっすら諒解しつつあります。これが鷲田清一「折々のことば」並みに毎日連載だったら(「折々のことば」は土日休みですが)ものごっついのですが、週イチ連載で、しかも掲載日当日の日記でなくても前後数日であればいいルールなので、自分で言うほど縛ってないじゃんという。
2005年の4月から2006年の4月まで、毎日新聞に掲載された伝説の連載の単行本化! 文学者や政治家などの日記からある一日を引用し、当時の社会状況や時代など「大きな歴史」では描かれることのない真実を解き明かす。
毎回の文章は、原稿用紙三枚、たった一二〇〇字程度。しかし、その中に驚くほどの教養が詰め込まれている。これぞ坪内祐三、これが坪内祐三だと感動を覚える評論エッセイ。
たぶんボーツー先生的には二巡目三巡目があってもいいと甘く思ってたかもしれませんが、その機会はなかった。ボーツー先生と誤報の毎日のどっちのせいか分かりませんが、生前本にまとめられなかったのも意味深です。ボーツーは左寄りではないと毎日新聞社でも分かっていたと思うんですが、連載開始後は著名人の日記から「その時」を切り取るより、日共や安保闘争を相対化してしまうようなおちょくり脱力日記がときどき出て、読者や論説委員の反応をおもしろがって窺がってるフシがあるので、続投ナシと判断されたのかなあと邪推してしまいます。
中島らもは『明るい悩み相談室』*1「連載を終えて」で、読者、それも東日本の読者をボロカスにこきおろしてます。①笑いに関しては西高東低。②オナラねたを出せばおもしろいと思ってる感性がダメ。ボーツー先生のこの連載も、左をサゲてる時にはそれなりの一部の読者の反発があったと思われるのですが、そういう記述は「連載を終えて」にはありません。でも、それでいて単行本化されてないという事実があると、陰謀論が活性化しますよね。世の中ひとつひとつそういうことなんだと思います。細部をおろそかにしてると、いつかひっくり返される。
本書に中国関係者は二人しか出ず、竹内好と武田百合子です。後者は厳密には(厳密でなくても)中国関係者ではなく、中国関係者の配偶者ですが… この二人に関しては珍しく「その時」を切り取った日記が使われています。めずらしい。

竹内好サンは頁75、台風の影響で国鉄のダイヤが乱れ、関西出張の手続きが大変だった話。当時は佐々淳行サンの危機管理なんてなかった時代ですから、復旧の見込みもロクにアナウンスがないどころか、拡声器も黒板の掲示も使わず、案内所に殺到する客にじゅんばんに「不通です」をface2faceで告げるだけだったとか。切符の払い戻しも長蛇の列でみどりの窓口の係員は非効率な計算作業。それで、竹内サンは初めて飛行機を使って関西に飛び、それまで喰わず嫌いというか、なんとなく敬遠していた国内便フライトも、「わるくないな」と結論づけたとか。
それまで飛行機に乗らなかった人が乗るようになった「その時」を切り取ったわけで、非常にイイ話ですが、中国まるで関係ナシ。まさかボーツー先生の脳裏に映画「君よ憤怒の河を渉れ」(北京語名:"zhuibu")で健サンが勝手に航空機を操縦して航空管制おかまいなしに国内移動する場面があったからこの日記を取り上げたわけではないと思います。ボーツー先生はテレビ番組をいちいち録画してDVDに焼く習慣があって、HDD使えばといくら言われても決めごとの習慣を変えようとしなかったそうなので、このように外的要因であってもドラスティックに習慣を変えることが出来、しかもそれで気分的にもアガるということになると、無関心ではいられなかったのでしょう。
武田百合子サンは頁87、『富士日記』*2で作家デビューする「その時」で、9月21日は、中公「海」に掲載された武田泰淳最後の日々の日記のさいごの日ですが、別にその日の日記である必要は全然ないので、記憶力がサヴァンナントカではないボーツー先生が九月二十一日で日記が終わることを覚えていただけだと思います。
岡本綺堂サンなんかも私から見ると江戸が漢籍から受けた影響があるので、間接的に中国ですが、ホンイキの中国学者ですら国鉄の話なので、本書に取り上げられたオカモトサンのエピソードが中国であるはずもなし。
その他、その人の個人的な「その時」というと、木山捷平サンが頁45、ダサイ入水をしのぶ友人たちの会、「桜桃忌」がダサイファンに知られ、認知されるようになり、ファンの裾野の拡大に伴って大掛かりな行事になってゆき、遂には参加を見合わせるときの日記があります。新聞連載ということもあってか、結果的にこの連載は個人個人のその時より、個人が日記に書き留めた世相の一大事件の方が多く、個人の転機の記事は少ないです。
浮谷東次郎の日記(頁62)で、六十年安保と言っても江の島では夜の一時になってもナンパでウロウロしてる若者で賑わっていたとあるのがトドメで、江藤淳の日記(頁44)では、ハガティ事件のデモ隊指導者が居もしない警察や右翼に責任をなすりつけたことを受け、「これではまるで大本営発表と同じではないか」と書いた文章を取り上げたりしています。こうした文章による挑発はしばらくするとなりをひそめ、頁107には下記のような引用がなされます。
頁107 外山繫 60年安保時万年筆の「コンマーシャル」に書いた一文『愛国心』
自分の生れた国を愛さない人間はあるまい。例へば安保条約に反対した人人は愛国心が欠けているからではない。その正否は別として、反対する方がより国を愛する所以であると考へたからであらう。恐るべきは愛国心を私有化することではないか。
同様のバランス記述はほかにもあって、頁23には明治大帝崩御に伴う乃木大将殉死の件について、青年時代の志賀直哉の身も蓋もない日記が紹介されているのですが、頁81では乃木希典夫妻の死について素直に衝撃を受けた内田魯庵の日記を紹介しています。こういうのは、読者からの反応を踏まえた対応だと思うんですが、どうでしょうか。三島由紀夫市谷演説と割腹自殺についての佐藤榮作日記(頁114)も、佐藤栄作サンより時の防衛庁長官中曽根康弘の言説が多く引用されてます。ノーベル平和賞受賞者個人の「その時」より、事件の影響をマクロに捉える方に筆がいってしまった。
逆に、大岡昇平サンのイラン・イラク戦争戦況観察日記などは、大岡サンが独自に欧米観念にとらわれず自由に戦争を行っているサダム・フセインやアヤトラ・ホメイニの思考を推察しており、欧米の損得勘定ではこの戦争も回教も理解出来ないだろうとしていて、おもしろかったです。フーコーも出てくるしデュルケムも出てくる。晩年に至っても、そんなに冴えてるとは。
頁78には岸田劉生の、関東大震災にまつわるデマを素直に信じた人の日記が出ます。私の先祖もそんな感じでした。内陸と湘南だから、そんなに離れてもいないし。こういうのを青筋立てて激怒してエスニック・クレンジングだと考える人もいるんだろうとは思います。レーゾンデートルなのか死活問題なのか、両方。
最期のほうになると、ボーツー先生のバランス感覚はまた本来のそれに戻ってゆき、東京大空襲を取り上げた頁153の日記では、添田知道という私なんかはぜんぜん知らない人の日記を出して、「世紀の喜劇」「アメリカがアメリカの植民地を焼いてゐる」という、その日とは別の日の日記をわざわざ引用しています。悪い虫がまた出たというか、その人の本質は変わらないというか。
ボーツー先生も常盤新平展ほかで町田を知っているはずですが、頁137の遠藤周作狐狸庵日記に関しては、町田も書かれていますが、柿生なので、川崎市多摩区、島田雅彦サンのテリトリーに関して書かなきゃいけなかったんじゃいかなという。なんとなくボーツー先生と島田雅彦サンは交差しないベクトルという気がしますが、実は無二の友人とかだったらすみません。
左はカバ折の、内田百閒の箇所。本書は中井英夫は出ますが、澁澤龍彦は出ません。澁澤龍彦の避妊法はヒドいので(奥さんのえっちゃんが中絶するだけ)ボーツー先生の避妊感を知りたい気もしますが、本書とは何の関係もないですね。
頁21に出てくる志賀直哉の『剃刀』は、新潮文庫の『清兵衛と瓢箪・網走まで』1968年*3に載ってるそうなので、読んでみます。これはヤフー知恵袋でも五個以上質問が出てる小説なので、有名なんですね。
この連載は夏目漱石『それから』*4から始まり、樋口一葉が作家として世に出る決意が固まりつつあるその瞬間の日記で終わっています。前者は親の援助で生きる高等遊民が自活せんとするオチだそうで(私は未読です)現実の実業界や社会のあれこれが漱石の小説の中では一番多く挿入されているそうです。『坪ちゃんの話』*5を読んだ後だと、ボーツー先生本人と重ねてしまいそうで、特に『坪ちゃんの話』いちばんの山場が彼の別名義小説だったりするので、勘ぐって買ってくれる読者がたくさんいればいいなあという感じなのかと。

ボーツー先生は死の直前字が乱れたそうですが、この連載はそれとは関係ない、逝去15年前の文章。感想を書くにあたって、本の雑誌社の公式を見たら、けっこうサイン本を通販してるので、最近クルマなので書店に行く機会がないのもあって(エキナカ書店にぶらりと立ち寄るのでなく、ショッピングモールの駐車場に停めてから行くんだなあと思うと)ポチってしまいましたが、本書のサイン本はさすがにないんだろうなと。アストラル体が波動で書いたサインが読めませんか? などと言われる心配もない。カソリックなので、そこから逸脱した思考を死後したりはしないだろうと。以上
【後報】
中国學はヨシミ・タケウチとユリコ・タケダのふたりが(ひとりは配偶者)出ますが、間接的ですが、事象としての「中国」が出て来て、とても印象的だったのが頁69の神谷美恵子サンの日記。
旧姓前田美恵子サンは、なんと玉音放送の三日前、八月十二日に日本のポツダム宣言受諾を知ってたんですね。弟の前田寿雄サンがラジオにかじりついて短波放送を聴いていて、八月十日午後八時五十分ごろ(どこ時間か知りません)日本が米国に降伏を申し出たことを八月十二日の短波放送で知ったとのこと。
この前田寿雄サンという弟は、神谷さんのウィキペディアにも神谷さんのオトーサンのウィキペディアにも神谷さんのオニーサンのウィキペディアにも記載がなく、アンド検索しても何も出ないというその存在自体がナゾなのですが、生まれた時に死別したふたごの弟で、神谷さんにだけ見えて、二人の会話は外部には神谷さんのひとりごとにしか聞こえなかった、というオカルトではないと思います。戦後の混乱期に早逝したとかなのかな。調べれば分かると思います。ヤフー知恵袋とか人力検索はてなとかで質問するかたちで。
八月十二日十時ごろに日本は米国に、十日の申し出回答如何と打診。午後四時半、米国は日本の付帯条件について注文をつけるとの報。こういう書き方ですが、無条件降伏以外認めない米国に日本側は有条件降伏(天皇の地位保全など)を打診して来たので、米国がふざけんなもまいとなる。翌十三日は朝五時半から一日中ひっきりなしに約八百機の艦上機来襲(日記の表現)で、帝都、長野、上田などが猛爆さる。ハマスに対するイスラエルのようデスネ。信州がやられたのは上田地下大本営に逃げても無駄だという米国の意思表示で、最初から無条件降伏しとけばこの数日の空襲で発生した死者は死なずに済んだと誰か戦後の識者が言ってたことデス。この、対話でなく武力による米国意思表示に対し、日本は十五日の玉音放送でようようやっと回答したわけですが、八月十二日の日記にすでにこうあります。
頁70
「(略)しかし敵側ははや日本降伏との報にお祭騒ぎをしている」
ここでやっと中国。チャンカイセック・蒋介石總統の中華民國でも日本のポツダム宣言受諾は報じられたわけで、戦時下の日本華僑にもその情報は燎原の炎のようにめらめらと広がったです。それで日本華僑が何をしたかというと、どうせ焼かれるからと価値が下落していた建築物など不動産をこの数日間で二束三文で買いまくったです。来るべき戦後復興を見据えて。京都四条大橋西南の東華菜館、あのイギリス様式の歴史的建築物は、今のオーナーと関係あるか知りませんが、そうして中華料理店になった、とは以前何かで読んだ話。
翻って日本の知識人が短波放送で知り得たその情報を元に何をしたか。
頁71
「エミールやスピノザのエティクや、ジョンスン伝や、寝っころがっていろいろなものを拾い読みし、殆ど何も考えずに泣いたり、ぼやぼやしたりして過ごしたこの数日は(略)」
私は日本の一般大衆は玉音放送以前にポツダム宣言受諾を知ることは出来なかったと思っていたので、短波放送で知ることが出来た人たちがいたという点にまず驚き、次にそのインサイダー情報をどう活用したかで嗚呼ニッポンジンと再度感銘を受けました。武士は食わねど高楊枝。板垣死すとも自由は死せず。2ちゃんねる嫌儲板。実学実業に生きないその姿は美しい(かもしれない)
中国ということで言うと、下記ふたりもかろうじて中国をかすめた日記。いや、こじつけかな?
頁72、昭和二十年八月二十日、ソ連侵攻下の一部の北方を除き、日本無条件降伏・戦闘停止状態にある中、米軍が上陸すると残虐非道な行為を行うというデマが急速に広まってる件についての大佛次郎の日記。
「敵占領軍の残虐性については軍人から出ている話が多い。自分らが支那(中国ー引用者注)でやって来たことを思い周章しているわけである。日本がこれで亡びないのが不思議である」
その一方で玉音放送があったにもかかわらず抗戦を止めない動きについても記述しています。
「土佐沖と沖縄で敵艦隊へ突込んだ件がニミッツを怒らせ、上陸は早かろうと木原君が東京から聞いて来る。停戦命令の出たあとに卑怯な行動なのである。しかしやった奴は忠義でやったと思っている。悲しいことである。指揮者は少将だと云う。国民がその為に苦しむことになる」(略)「逗子あたり重機をかついでよろよろした水兵が戦争はこれからだぞと町を呼号して通る由」(略)「宇都宮あたりは兵に毛布や米をやりどんどん帰国させているそうである」(略)「農民は叛軍のビラを見ても馬鹿にしている」
ホントに米軍がダウンフォール作戦、鹿児島宮崎に上陸してまず本土決戦に準備した国内虎の子の兵力をすべてひきつけ殲滅(オリンピック作戦)しかしそれ自体が陽動で、皇軍が西に移動したところで本隊が相模湾に上陸、一気に帝都を衝く(コロネット作戦)を実行していたら、まあこういう動きも無駄ではないというか、一億総員護国の鬼となり、小松左京『地には平和を』*6の世界になるわけですが、日本にそこまでの抵抗の余力もないし、ソ連参戦と新型爆弾投下はダウンフォール作戦の戦容を著しく変えたことでしょう。ドイツ同様、ソ連に先に首都に到達されてそう。掲載は2005年7月10日㈰。
頁54、昭和十九年七月十日の伊藤整サン日記はサイパン陥落で、こののち米軍がフィリピンに向かうのか小笠原にとりつくのか不安にかられる世相を描いています。実際には米軍はさらに丁寧に台湾空襲という陽動をはさんでマッカーサーがマニラにアイシャルリターンで、翌年エイプリルフールに沖縄本島上陸、それまで日本軍は水際で死に物狂いの上陸阻止戦をタラワでもアッツでもマキンでもその他どの島でも繰り広げていて(アッツ島はちがったかな)、私が会ったインドネシア人は、日本兵は木の上にいるのがデフォ(椰子の木に登って隠れて水際の米兵を狙撃していて、火炎放射器もしくは艦砲射撃で死ぬ)とまで言っていたのですが、沖縄では日本軍はいっさい水際の抵抗をせず、無血上陸した米兵は、これがホントのエイプリルフールと笑ったとか。という未来まで伊藤サンが見通せるはずもなく、しかし過去は分かるので、昭和十九年七月は盧溝橋事件から丸七年で、この七年の窮乏生活耐乏生活は日本人の日常をすっかり変えてしまったと感嘆しています。この日記は「まさか本土までは攻めてこないだろう」⇒「本土も危ないかも」の意識転換の「その時」ということですが、B29の航続距離まで知悉していたわけでないでしょうから、漠然と思ったらそれが当たっただけで、「その時」になってしまったのを後付けで判定という感じかと。
話をおさらぎサンの日記に戻すと、ボーツー先生は中国戦線について具体的な事件は特に書いてません。そういう「その時」の日記は本書にはない。中国帰還者連絡会の『三光』なんかだと、書いてある行為が、くどいやり口だったりすると、けっこうそれ以前の国民党の八路掃討戦ほかでも残虐行為として出てくるので、そういうテンプレがあって、ブレインウォッシングで邦人の口から日本語で語られたりした面もあるかもなと思ってますが(シンプルな強姦などは別。戦後ふつうの市民生活に戻った人が宴席で酔ってあられもない話をしたりするので、まあ、聞いた方は忘れなかったりして)ボーツー先生がそこまで知っていて書いてないとも思えないです。福田和也サンだとどうだろう。長征で延安を目指さず分派した八路軍が馬歩芳麾下の回族軍閥軍に殲滅させられた時生き埋めになった万人杭が市街の外れのあそこにあるよなんて話を聞かされてると、万人杭"wanrenkang"てあっちこっちにあるんだなあと思うわけで、日本語ウィキペディアの万人杭が日本軍のだけしか書いてなくて、しかも中文や英語など他言語版がないのは変なのと思います。
(翌日)



