『身分帳』"The Identification Book"(講談社文庫)読了

カバー装画 水谷有里 カバーデザイン 長崎 綾(next door design)英題はグーグル翻訳。

ほかの著書は絶版のままなのか、文字がいっこもないカバー折。
単行本が1990年6月刊。その年か前の年に「群像」掲載。モデルとなった男性の死去がその年の晩秋で、いちど1993年に文庫化。その後、ながらく増刷未定入手困難が続いたが、映画化を機に監督の「復刊にあたって」を添えて2020年7月再版。私が読んだのはその2021年3月の五刷。モデル男性の逝去とその思い出を死後綴った『行路病死人』と秋山駿の解説は、前回の文庫にもついていたと思われます。

私が映画を見たのが今年の四月*1で、そのあとすぐ図書館でリクエストして、最近やっと順番が回ってきました。別に急いでないのでかまわなかったです。でも、服役まで連れ添っていた七歳年上の奥さんが、映画でどう描かれていたか、まったく記憶から削除されており、今映画の配役を見て*2、安田成美が演じていたとあるのですが、どうにも記憶が定まらないです。どう考えても、映画が原作同様「私をお母ちゃんと思いなさい」なんて言うタイプの女性になってる気がしない。ひとつには、監督が嫉妬して、主人公のお母ちゃんは監督ひとりでじゅうぶん(あえて人物化するなら長澤まさみ=監督)と考えていたのかもしれません。

そこだけ私は映画の記憶が欠落してるのですが、ほかはおおむね、映画のイメージで小説を読んでしまいました。町内会長のスーパー店主など、映画さえ見なければ六角のイメージなんて1㍉も湧かなかったでしょうが、映画を見たので、どの場面を見ても、六角が喋ってる気がしてしかたなかったです。弁護士の橋爪功も、原作だと主人公とほぼ体格が同じということになっていて、だからコートの貸し借りなんかも自然に出来るのですが、役所広司橋爪功が同じ体格とは、お釈迦様でも気づくめえというか同じ体格じゃありませんので、映画のなかで「ぼくのコートだと少し小さかったかな」みたいな調整用のセリフを橋爪功がしゃべっていたかのような記憶すら脳内に植え付けられています。実際にそういうセリフがあったかどうか、まったく自信がありません。

頁17「虞犯」が分からず、後のページに説明があるのですが、グを「おそれ」と読み、「犯罪をおかすおそれ」になるなんてさっぱり分かりませんでした。

kotobank.jp

虞美人草は、美人のおそれのある草でしょうか。

虞美人草の花が咲いています-新宿区立漱石山房記念館

頁120

「失礼ですが、両手の小指は無事ですね。やくざ渡世が長いとたいていの者が“指を詰める”と聞きますが……」

「それは不義理をした場合でね。自慢じゃないが真っ直ぐ歩いてきたけん、指を詰める必要がなかった」

こういうやりとりが随所にあるので、そりゃ人気が出るかなという。十三年刑務所に入っていたその間娑婆にいたら、逆にどうなってたか分からないとは後で思うことですが、その手のツッコミをすると、気分よく話してる主人公の気を害すこと請け合いだろうな。

映画は原作のすべてを切り取ってるわけでないので、原作にある、運転免許の件も、ホスト募集のインチキ広告も、福祉事務所主催の婚活パーティーも、隣人の飼い犬がうるさいのでちょっと恫喝した件も、映画は違うはずです。原作の新聞拡張団が、半グレ管理?の外国人不法就労組になってるとか、映画では暴対法で締め上げられて暴力団が斜陽なのが、原作では、薬局の異名をとるほど、あまりにおおっぴらに覚せい剤をさばきまわってる組なので警察がつぶしにかかってるとか、そういった、現代にあわせた設定変更があるのは分かりました。そうした時代の変遷を取り入れたら非常にマッチ、奏功して(特に暴対法)、いろんな人が、ゆくすえはいきだおれ、畳の上で死ねない商売、等々の不安を忘れ共感し、喝采を叫ぶことが出来たのではないかと思います。

しかし後半になると、だんだんやっぱり今の21世紀だとチビシくなってるから、読んでどう思うかみたいな部分が出てきて、今だと炎上してもいいかも的な個所もあります。

頁338

「求人広告を見ておると、日雇い運転手というのもある。ちょこっと働くぶんには、福祉事務所に断る必要はないやろ?」

「それぐらいは大目に見てくれるよ。大事なのは働く意欲だからね」

こことかそういう部分だと思います。もっとも主人公は、血圧が高いのと、痔で、刑務所でも後半はあんまり作業してないかったとか。だから福祉。そして死因は高血圧からくる卒中みたいなの。

頁362、「馬賊芸者は博多のおなごやけんね」という啖呵市場、否、啖呵がカッコよかったので、検索したら、火野葦平原作京マチ子主演の映画が出ました。

www.kadokawa-pictures.jp

モデルの男性は短歌を詠んでいたようで、たとえばこんな句。

頁421

何党が天下取ろうがムショ暮らし

あっ、これは短歌でなく俳句だ。いや季語がない。

小説の主人公は獄中で連合赤軍から勧誘を受けるが、自分は右寄りなのでと断っています。そういう絡みで、作者がモデル男性を知って小説化したのかと、読みながら思ってました。いわば、連合赤軍絡みの取材から生まれたスピノフ作品。しかし、『行路病死人』"Dead person with a path illness"を読むと、せっかく珍しく自分の身分帳をぜんぶ筆写して娑婆に持って出てきているので、なんとかこれで一山当てられないかと考えたモデル男性が小説家に持ち込み企画だったと分かります。さらに、小説はさいご非常にキレの悪い尻切れとんぼで終わるのですが、それは、モデル男性が東京から博多に転居して、本職ではないけれど、そのまま行くとまたタイーホも時間の問題かしれん、というグレーゾーンで働きだすからとも思いました。そして突然死。

それをあえて火中の栗を拾って(あるいは寝た子を起こして)映画化しようという監督は、やっぱ頁392にあるように、身寄りのない孤児の主人公に対し、母親マゾヒズムに取り込まれてしまった気がします。んが澤まさみは、そんなに出てこないのに予告ではさもいっぱい出るように使っていてズルイ、と映画レビューに書かれてましたが、自身の分身だから、出さずにはいられなかったのではないかと。原作にこんな人いないですもの。コピーライターは出ますが、途中でついていけず逃亡するし。で、小説家の奥さんは、モデルの男性を毛嫌いして、最後までこわがっていたそうです。それもまた本能的なある種の自己防衛本能。

『身分帳』における母性愛の考察については、作者がわざわざ『行路病死人』頁391で、週刊ポスト東洋大学佐藤晴夫教授(刑務所長、矯正研修所所長経験者で当時矯正協会附属中央研究所所長兼任)がインタビュー形式で、高橋団吉という人に答えた書評を引用しています。「私をお母さんと呼びなさい」はもとより、岸壁の母みたいな歌は日本にしかないとか、極道の妻は最初は恋人だけどだいたい共依存で疑似的に母親の役割を演じるようになる、云々。漢語世界にも”流浪的孩子在想念你,情爱的妈妈“という歌があるとか、イタリアの男はみんなマザコンでママまま言ってるとか、それをパヤオラピュタの海賊一家でパロディ化したろうとか、異論反論はありそうですが、いずれも「日本だけではない」の域を出ず、浪花節ザコン説には異論がないと思います。氷川きよしも、女子力にとどまらず、「恋」をテーマにしだして、「愛する人のために」とか言い出してるのが気にならなくもないです。

監督が主人公、モデルの男性に母性本能を刺激されたとするなら、TL要素もさることながら、BL要素も見逃せないと思います。頁248、宇治初等少年院で、李賢明という朝鮮籍の少年が尻子玉を抜くカッパになって、主人公が肛門を提供するアンコになってその庇護下にあったが、全身全霊ではむかったので、そのうち李の支配下を脱することが出来、同時に皆から一目置かれるようになったとあります。ここ、じゅんときた(Ⓒ宇野鴻一郎)のではないでしょうか。下記は、数年ぶりに自慰で射精する場面(釈放後半年のプーソーでは勃たなかったが、その後食が太くなるとエレクトするようになる)

頁294

 いったい何年ぶりだろうか。オルガスムスが訪れて、射精に至ったのである。あわてて掌で受け止めて、茫然としてしまった。

 ようやく起き上がって、流し台で手を洗った。途中で匂いを嗅ぐと、やはり栗の花が放つ香りだ。宇治初等少年院時代に口で奉仕させられて、どうして同じ匂いなのか不思議でならなかった。そんなことを思い出して、突然の回春に陶然とした。

映画にそんな回想シーンはありません。監督だけの宝物なのかもしれない。

佐木隆三 - Wikipedia

解説者の考えでは、日本の小説は、その発祥からながらく私小説自然主義で、市井のふつうの人の視座で日常の出来事をたんねんにえがいてゆくことを主眼としていたが(あるいは恋愛)、こと戦後は、そうでなく新方向を目指す必要に駆られ、アメリカ戦後小説はセックスがテーマになったが、それはちがう、アキヤマ的概観では、特殊な人のありえない犯罪などをテーマにすべきではないかというご高説で、それにそって埴谷雄高三島由紀夫大岡昇平大江健三郎加賀乙彦らがそうした小説を書いていたが(私は加賀乙彦という人を知りません)いつしか廃れ、佐木隆三サンひとりがそうした小説を書き続けてるんだとか。緒形拳主演『復讐するは我にあり』は私も見て、ステッキガールということばをこの映画で知りましたが(『行路病死人』ではモデル男性が二度ほど韓国でそういうリミテッドオクサンとイチャイチャしてたという記述があります)この小説家の作品とは知りませんでした。むしろ、『海燕ジョーの奇跡』という書名をやたら当時図書館やら書店やらでみかけて、内容を知らずに、カルいタイトルだなあ、片岡義男みたいなサーファーの話だろうかと思って辟易していた色眼鏡の思い出があります。*3

bookclub.kodansha.co.jp

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以上