ヨシコ・ウチダさんの本もこれでいったん打ち止め。
カバー(写真)
ロサンゼルスへの家族旅行の途中にて,左が著者ヨシコ,右は姉ケイコ.書き添えられた母の短歌が印象的だ.
カバー折には、表紙の短歌について「印象的だ」と書いてあるんですが、じゃあこの短歌が読めるかというと、読めません。で、本書のどこにも活字に起こされてません。周りの人に聞いてみても誰も読めず。まずここで躓きました。最初は「遠乗りに」でしょうか。次が「呉れし」(暮れしと云いたいのだろうと)「召れし」(これだとイミフ)「ひかれし」あるいはそれ以外か。次が「光」でその次の漢字が読めません。「ミツコ(光子)」だったらラクなのですが、そんな人物は出ませんし、なんだろう。次は「の」で、その次の漢字も読めず。おそらく訓読みで、その次は「がりき」と送り仮名があるのですが、何がりきなのか、さっぱりさっぱりです。消臭リキ。ここまでで上の句。下の句が(短歌って、上の句下の句と言っていいのか知りません)「ピスモの海にあしをひたして」と読めばすんなり読めるのですが、残念なことに、「に」に当たる箇所が、「ふ」に見えて仕方ないです。「海」を「渚」に言い換えても「ふ」の謎は解消されませんし、「洗ふ」と読むと(「洗」の崩しには見えませんが)、全体として文法的になんかおかしいです。ピスモという地名が主語で、動詞が続いて「あしをひたして」につながる日本語が考え出されない。最後の一文字も、「て」でなく「き」or「ぬ」かもしれません。本文にもご母堂の短歌は十首*1前後収録されているのですが、ひとつも連用形プラス接続助詞「~て」で終わる歌がないです。そういう歌って、新しくね?、って感じ。
ぜんぜん関係ないですが、「飲んで」が「飲む」の五段活用「飲まない」(「飲もう」)「飲む」「飲むとき」「飲めば」「飲め」(「飲み」は名詞化してるので活用形じゃないんだったかな)のどれにも該当しないので調べたのが下記。
訳者あとがきによると、1966年、ヨシコさんの母親郁子さんの葬儀の際、聖フランシスコの祈りが朗読され、夫君である堯さんは「愛情(なさけ)ふかく心やさしき人なりき友は語りぬ彼女しのびて」という歌も詠んだそうです。「~て」で終わる歌の収録は、これだけ。
もともとの原書では、母親郁子さんの歌はヨシコさんが英訳したものだけが載せられていて、邦訳のさいに、邦訳者波多野和夫さんが、もとの日本語の歌をおさめ、併せてヨシコさんの英訳も添えるとかたちをとりました。もとの歌は、郁子さん没後の1967年に内田堯さんが私版で出した『ゆかり抄』(ゆかりは郁子さんの雅号)から引用してるそうで(頁36)すが、表紙の歌がそこに入っているかは分かりません。
ゆかり抄 (内田堯): 1967|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
『ゆかり抄』自体、非売品で蔵書館が限られてます。歌人でもない人の歌集で、蔵書があるほうがスゴいのかもしれませんが…
本書荒野に追われたデザートエグザイル、装幀者名記載箇所じたいが見つけられません。が、訳者あとがきによれば、大見修一さんという方がカバー装幀ほか製作全般で世話されて、この表紙の出来には著者も母に見せたかったとよろこんだそうです。手書きだけでなく、活字も添えてくれればよかったのにな。
訳者あとがきには、ほかに加藤亮三(編集)手坂浩之(校正)山鹿太郎(口利き)諸氏への賛辞も見えます。大見さん含め、いずれも岩波書店勤務の方だったのかな。ほかに、同志社大学教授オーティス・ケリー、ブリティッシュコロンビア大学ジャン・F・ハウズ教授、ジョージ・M・大城夫妻らへの謝辞あり。訳者の波多野和夫さんは、検索すると失語症などが専門の精神科医の方の著書しか出ず、同一人物か同姓同名かも分かりません。本書には訳者紹介の個所もなし。
冒頭に両親及びすべてのイッセイへの献辞あり。中扉の次にご家族の写真と両親の写真。本文中にも写真多数。家族のポートレート以外に、国立文書館提供の、日系人戦時収容の資料写真も多いです。収容所内の小学校の授業風景など。
図書館本。エンピツで数ヶ所、傍線がつけられてます。
全八章構成。一、二章が開戦前。三章開戦(真珠湾)四章強制立ち退き。五、六章タンフォラン(元競馬場)七、八章トパーズ(ユタ州の砂漠地帯)一、二章の日常が興味深かったです。それまでフィクションで読んできた日系人家族の設定と、作者との比較が出来たので。収容所に関しては、射殺された人や、誰が助けてくれたなどの人物相関関係で、フィクションとの異同はあれど、わりと現実でも体験することは同じです。私はどちらかというと、ヒサエ・ヤマモトさんの淡々とした収容所ライフの記述との比較で、考えてしまったりしました。それでいうと、戦前ライフも、ヒサエさんのほうは、黒人や中国系、朝鮮系、フィリピン人、メキシコ人などがストーリーに入ってくる(時にはしばしば闖入というかたちで)のですが、ヨシコさんのほうは白人と日系人以外、きほんインビジビル、不可視です。
日系人強制収容で、ドイツ系やイタリア系は収容されないのに、なんで日本人だけ、という指摘は本書でもありますが、同時に、日系人の少ない東海岸はもとより、多かったハワイでも収容されてないのに、なんでカリフォルニア等西海岸だけ収容されるの、という箇所に、ハワイされてないんだっけ?と、ハッとしました。チャイナマンズ。前に鶴間のペルー料理店で、ペルーの日系人も強制収容されたと聞き、調べたらホントにそうで、わざわざステイツにまで送られて収容されてたので、なんじゃそりゃあと思いましたが、その一方でハワイは無事だったということだと、ほんと、思いつき政策だったんかなーという。それでも一度起動するとシステマチックに行くとこまで行ってしまう。止まらない人間機関。
調べると、ワイハーでは、いちぶの成人男性だけを収容したそうで、ぜん日系人を収容するスペースもおぜぜもなく、かつまた社会から日系人が消えるとなんもなりたたんくなるということで、パールハーバーのおひざもとではあるんですけど、十五万八千人の日系人の内、二千人を強制収容するにとどめたんだとか。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/kouen/pdf/22_01.pdf
ヨシコさんの父親の内田堯さんは、若くしてシアトルの日本人経営雑貨店のポートランド支店の支配人にまで出世し、妹ふたりと母親も北米に呼び寄せ、さらには三井物産サンフランシスコ支店に一本釣りで引き抜かれ、天下の三井物産の社員になっています。前職で支配人だったわけなので、それなりの待遇だったと思われ、現採は現採なのですが、そう書いてしまうと、ミスリードにつながりそうです。ヨシコさんの母親の郁子さんと父親とは、ともに同志社で(学年はちがう)面識はないが、文通はしており、写真花嫁というわけでもないという。
日本人雑貨店はフルヤといい、ここで、ベルが二度鳴る前に電話に出る習慣を身に着けたそうで、これって、日本じゃまだ電話普及自体ガーという時代じゃなかろうかと思いました。既にある白人商店の習慣を取り入れて、それが日本にも広まったのかなあ。私は大阪のちっさな商社(伊藤忠の末端の末端)でこの習慣を叩きこまれましたが、後年関東のメーカ等で、だっれもそんな気風がなく、鳴りっぱなしほっときっぱなしなので、ばかばかしささえ覚えたものです。ツーコール以内にとれや、って、教わったかどうか、世代差も含めて、誰か全国調査してほしい。関西だけが特異点なのか、バブル以降の東京で崩壊したのか、どっちなのか。
なので、ヨシコさん自身が挙げてますが、当時の一般的な日系移民とは、異なる点がいくつかあります。①所謂駐在社会とも越境して繋がってる点。ブラックマンデーに端を発する米国不況も日系人へのその影響も関係ない、親方日の丸の駐在社会に片足を突っ込みながら、もう片足は現地日系人社会につながっている。②父方の祖母が渡米しているため、親の親の世代との直接交流の経験をもつ、めずらしい三世代日系人だったこと(頁26)祖母は京都で入信した敬虔なキリスト教徒だったそうです。③安定した経済力を背景に、東バークレーの、海を見下ろす丘の上の白人中流(以上)居住地帯に進出して、そこの戸建て住宅に住んでいたこと。
また、母親の郁子さんは、同志社時代、けっこう米国人宣教師にいいように使われていて、そこでお針子仕事など、手に職がついたからよかったものの、読んでて、南インドの現代小説の、宣教師がインド人寄宿生に手をつける話なんかを思い出して、げんなりしました。大同生命と思ったけど見つからないので、井村文化事業のほうだったかもしれません。あるいはどちらでもないか。
スチュアート通りの家の写真は頁43にありますが、平屋で、モルタル?で、今見て、昭和四十年代の世田谷の文化住宅といっても信じる人がいそうです。
ヨシコさんの小説の主人公の女の子は、だいたい男きょうだいかやんちゃな従弟がいますが、現実には姉がいて、四歳年上なので、けっこう支配的で、「ママには言わないのよ、いいわね」というと、ヨシコさんはなぜか魔法にかけられて盲目的に服従してしまったそうです。頁44。
読んでて、ヒサエ・ヤマモトさんの小説のように、パールハーバーの前哨としての、日中十五年戦争における北米プロパガンダ合戦の余波の描写があればなあ、と思いましたが、ないです。
そして強制収容。"evacuation"という単語について、ヨシコさんは注釈をつけて、「アメリカ市民」を、"non-alien"(エイリアンでないもの)と呼んだような言い換えの文脈で考えて卓袱台と書いてます。強制収容所は"consentration camps"なのに、"Assembly center"(集合所)や"relocation center"(転住所)と呼ばれたのも、同様に本質を隠す所作だそうで。頁88。ここで、めずらしく、フィリピン人から、真珠湾以降フィリピンが日本軍に蒙った被害についてニセイたちが抗議される場面を書いています。
頁92には、日本人排斥を主張するラジカルな扇動家たちが、日系人のどんなデマを流したか書いてます。米国にとってなかなかの利敵行為、通敵行為のオンパレード。もっと荒唐無稽でもいいんですが、適度に信じ込みスパイスが混じりーの。
下記はカリフォルニア大学の学生新聞「デイリー・カリフォルニアン」に日系学生が投書した手紙。
頁107
「(略)われわれは狂乱の時代を経てきたが、だからと言って自己の利益を追求する政治家や特殊な利益集団の、数は少ないが大声をあげる少数派の悪罵を理由にして、アメリカ国民を咎めることはできない。われわれは、ごくわずかの連中が自分たちの目的を遂げるために民主主義の仕組を悪用したことを理由に、民主主義を非難することはできない……これからの困難な時代にあって、われわれは今回の立ち退きをかくも気の進まぬものにしている風潮を、新しく創り直すよう試みてみようではないか。(後略)」
これは、勇気のある理想主義的な言葉ではあるが、当時の私たちのほとんどの者の感情を言い表していると、私は確信している。
映画「主戦場」を見て、けっこうな日系人活動家があちらでネトウヨングな取り組みをしてるので、へーと思ったんですが、WWⅡでHAKUJINにされたことの身体的記憶が、攻守を替えて蘇ってるのかもしれなかったりするかもなと思いました。フォーチャネル。
Tanforan Racetrack - Wikipedia
Tanforan Assembly Center - Wikipedia
頁131、タンフォランで、トイレが扉のないトイレである(プライバシーガーという悲鳴)旨の記述があり、それって、昔は座間キャンプとかにもあった、防犯上の理由で、上と下があいた扉の、洋式便器のトイレじゃないのと思いました。ミッキー安川のアメリカ南部留学記に出てくる学生寮の男子トイレ(大)は、仕切りのない長い空間にタイル張りの溝があって、そこに水が流れて糞便を押し流してくれるので、各自溝の適当な場所をまたいでしゃがみ、用を足す(前にもすそをあげて用を足してるオケツが見えたりする)スタイルでしたが、そうでもないようです。
stantsiya-iriya.hatenablog.com
ミッキー安川の米国南部式トイレ、フリー・バイユーとでもいうのかは、私は上海等中国ではけっこう出っくわしていて、中国のニーハオトイレは密告防止用に共産党が敷衍したものである、その証拠に台湾にはないわん、という言説が在留邦人の間に流布しているのですが、ソ連にもないですし、しかしアメリカにはあるということで、捉え直しをしてもよかんべと思ってます。蒋宋美齢がアメリカ南部から民國に持ち帰った説でものがたりがつむげれば面白いのに。
話をもどすと、日系人は収容所のニーハオトイレで、新聞を読むふりして顔を隠しながら用を足したりしたそうで、じゃあ洋式便器だったのかなと思います。
頁155、タンフォランでは、宗教団体としては新旧の垣根を越えた超党派のキリスト教会と仏教会があり、社會インフラとしては郵便局がまず開設され、病院は収容された医師と看護師ですぐ陣容が整ってスタートし、蔵書四十一冊で始まった図書館も外部寄贈により最終的には蔵書五千冊に至ったとか。そのあとはレクリエーションの芸能大会や学校教育の話になるのですが、あいだに新聞の話がはさまっていて、収容所内で収容者が発行した新聞の名前は「タンフォラン・トータライザー」だそうです。
Tanforan Totalizer (newspaper) | Densho Encyclopedia
Tanforan Totalizer | Densho Digital Repository
https://www.outofthedesert.yale.edu/
トータライザーの意味が分からなくて、計算機の意味でもなかろうし、全体主義のトータリアリアニスモとはちょっと違うだろうし、絶対断酒主義のティートータリスムとももちろん違うだろうし、なんだろうと思ってます。連邦政府と陸軍の言い換え主義を皮肉ってるのかもしれません。
本書の三章四章と、七章八章はそれぞれ本書の前に活字媒体に発表済(前者1966年後者1980年。後者は単行本化に際し大幅加筆)エピローグでは、三世からのつきあげの記述があります。なんで言いなりだったのさ、という。だいたいの敗戦国だと、なんで戦争反対しなかったのさ、という主張が若者からの突き上げなのですが、ちょとちがふ。
小説だと、ミッドウェー以降なのかガダルカナル以降なのかレイテ以降なのかインパール以降なのか分かりませんが、トパーズで、管理者側との触媒として収容所町内会みたいのをまとめていた主人公の父親は、神州不滅の皇軍必勝を祈願する「勝ち組」からさまざまないやがらせを受けます。で、この小説回想記ではそこは、ちょっと触れるだけです。でも小説と同じことがあったことは分かる。
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現行の原書の表紙の上の写真はトパーズでなく、マンザナーです。下は知らない。
以上
【後報】
表紙の歌について、故人の歌集を蔵書する図書館に、同歌が収録されていないか問い合わせたところ、快くお調べ頂き、回答をちょうだいしました。
遠乗りにあきし子供等興がりきピスモの海にあしをひたして
こういう歌が収録されているそうです。こう読むしかないかと。
いやー、「あきし」「子供等」「興がりき」ひとつとして読めませんでした。江戸時代でも室町時代でもない、戦前の人の手書きなんですけども、いやー、読めなかった。
「興」は異体字かとも思いましたが、「㒷」も「𠎢」もちがうだろうなあと。
「あきし」は、何か、万葉仮名のようなものを使っているようにも思いますが、分かりません。
「子供等」の「子」は、手書きでは「小」なのかもなと思ってます。
(2022/5/30)