地獄で温かい|アジアの現代文芸の翻訳出版|翻訳出版|事業紹介 | 公益財団法人大同生命国際文化基金
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白水社の外国文学翻訳者よもやま話の本*1でこの人のベンガル語翻訳の話を読み、じゃー邦訳も読んでみようと思って借りました。個人的には西ベンガル、コルカタを中心としたインド側に興味があったのですが、何故か借りたのは東ベンガル、バングラディシュの本でした。
「バングラディシュの」にあたる、"বাংলাদেশের "が最初グーグル翻訳で出ず、"বাংলাদেশী"になってしまい、「バングラディシュ」の"বাংলাদেশ"を使って自作したのですが、グーグル翻訳でそのファクトチェックをした後は、もう普通に"বাংলাদেশের "が出るようになってしまい、AIに私の英知が盗まれた気分です。そんなに簡単に知の集積してインカ帝国。
本書は、下記三人の作家さんの短編小説を、おもに1952年のベンガル語国語化運動と1971年の独立戦争という、東ベンガルに訪れた「日常と非日常」と、それから女性などのテーマに振り分け、収録したものです。WWⅡ終盤にベンガル地方を襲った飢饉についてはインド側のクリシャン・チャンダルなどで読んだことがあり、また、印パ分離独立下の数々の悲劇についても、同書や、パキスタン側の大同生命の小説で読みました。しかし、1952年のベンガル語国語化運動と1971年の独立戦争は、バングラディシュ固有の事象であり、バングラディシュ人自身が語らねばならない出来事ですので、そこにフォーカスした短編集とは夢にも思っていなかったのですが、読めてよかったです。
訳者あとがき 2019年12月
イリアスはバングラディシュ創成期の激動の時代を生き、その安定と繁栄をほとんど享受することなく亡くなったが、(略)
ハッサン・アジズル・ホクは、ラジシャヒ大学在職中にアカデミアと宗教の分離を訴えてとある筋から攻撃された過去をもち、現在もそのリベラルな発言が攻撃の対象となっているし、セリナ・フセインは女性であることもあいまって、要職に就くたびに脅迫にさらされるという。そうした状況にありながら、二人の作家は淡々と書くべきものを書いてここまで来た。もちろんその裏には、そうした二人を支える状況と読者の支持もあるわけだが。
私がベンガル語小説を読んでみようと思ったのは、訳者の人のエッセーを読んだのと、海老名のモスク近くの、インドのムスリムのインド料理店の人と話をするとっかかりになるかな、くらいの気持ちだったのですが、バングラディシュの小説でしたので、言語を巡る東西パキスタンの対立から独立戦争への経緯が分かったのはよかったのですが(ウルドゥー語の強制とそれに対する反発)じゃーバングラディシュ料理店に行くかというと、近隣のバングラディシュ料理店は、どこも開店休業というか、休業補償やら時短要請協力金ガーで「開いてるの見たことない」とかそんなんばっかなので、回教徒スリランカ人のスリランカ料理店やインディアンムスリムのインド料理店が活発に店を開けているのと対照的で、しかしまあ、相模大塚ではインド料理の顔をしているチェーン店が八王子近辺の支店では完全バングラディシュメニューを出しているそうですし、厚木の、以前はやる気があったのだが、ある時点から時短に転んだというか完全に腹をきめたバングラディシュを代表する河川名の料理店が、再開してるような口コミも見ますので、どこかで❶本書の作家さんを知っているか❷どう思うか、聞いてみたいと思います。
装幀 山崎登 訳者紹介 萩田博(東外大准教授) バングラ方言訳協力 モンズルル・ハック モイヌル・シャオン シュジット・クマル・マンダル(東外大外国人教員) 訳文チェック 日経新聞事業出版センター それから謝辞が、大同生命国際文化基金志村秀史前専務理事および阪東敏哉専務理事、事務局安田奈央さんへ。
以下感想。「第何部」は私が章題に勝手につけた符号。ベンガル語のアルファベット表記で、本書とウィキペディアで異同がある場合は、本書表記を優先しました。また、ベンガル文字表記のウラが取れなかったものは、ハテナをつけています。
第一部 村・河・鉄道 পার্ট 1 গ্রাম, নদী, রেলওয়ে Part 1 Village, River, Railway
『昼じゅうカンコンは』ハッサン・アジズル・ホク
"সারা দুপুর" হাসান আজিজুল হক
"Sara dupur" by Hasan Azizul Huq
寝たきり老人を孫目線で描いた佳品(棒 しもの世話でけっこうアレなはずなのですが、室内がいつも清潔で涼しげに書かれているのが妙。1964
『足の下には水』アクタルッジャマン・イリアス
"পায়ের নিচে জল" আখতারুজ্জামান ইলিয়াস
"Payer nice jal" by Akhteruzzaman (Suraiya) Elias
私はバングラディシュ名物と言えば洪水と思っており、この話は洪水が引き起こす悲喜こもごもの「悲」クローズアップとして読んだのですが、堤防を不法占拠して暮らす人々など、どうも戦乱や人口爆発など、ほかの要因もあるように解説等で印象を修正しました。天災人災であられもない姿になった女性、ペチコートとブラウスだけになってしまった二十代女性が、水に飲みこまれた七歳の息子の話を、かなり脚色して語る場面があり(頁30)サリーの下の下着はペチコートであるとの注釈を読んで、サリーが脱げるとふつうの下着姿になるのか、そりゃそうか、そういうことって異性だと分からないものだよなあと思いました。また、男女ともにそれなりに肌を見せない文化であっても、災害時はどうしようもないとも思いました。
頁33「ヘナで煉瓦色に染めた髭」 パキスタンでオレンジ色の髪のオッサンを初めて見た時、世の中にそういう色の髪の人種がいるんだと本気で思いました。今の日本だと女性がふつうにヘナで髪を染めてるようですが、あそこまでのサファリオレンジにはしないと思います。宗教的な意味とか調べようと思いましたが、検索出来ませんでした。
https://older.minpaku.ac.jp/sites/default/files/research/sc/teacher/minpack/muslim2/pdf/214.pdf
ヘナはなんちゃってタトゥーにも使うそうで、映画バーフバリで、バーフバリは寝ている女性にいきなり墨を入れたりするのですが、モノホンではなくて、このなんちゃってタトゥーだったのかなと思いました。本物だったら痛くて起きただろう。
1985
第二部 闘争・戦争・解放 পার্ট 2 সংগ্রাম, যুদ্ধ, মুক্তি Part 2 Struggle, War, Liberation
『振り返る』セリナ・フセイン
"ফিরে দেখা" সেলিনা হোসেন
"Phire dekha" by Selina Hossain
エクシェ・フェブラリー事件の日、1952年2月21日に親の決めた結婚相手(ただし、当人は双方ともインテリ青年で、互いにまあまあ好もしくも思っている)と式を挙げる予定の女子大生が見るプレコグニション、幻視。
Bengali language movement - Wikipedia
বাংলা ভাষা আন্দোলন - উইকিপিডিয়া
International Mother Language Day - Wikipedia
আন্তর্জাতিক মাতৃভাষা দিবস - উইকিপিডিয়া
頁72「キャンティーン」が分からなくて、検索しました。英領時代の名残か、バングラディシュでは〈小卖部〉〈杂铺〉をキャンティーンと読んでる感じ。インド亜大陸どこでもでしょうか。
英語「canteen」の意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書
付け焼刃で検索しましたが、この作品というわけではないのですが、あちこちで、ウルドゥー語強制の前は英語強制で、その前はペルシャ語強制だった、みたいな表現が見られるのは、ムガル王朝など歴代征服王朝がペルシャ語を公用語としており(トルコ系であっても)インドを制圧した英国が1837年にペルシャ語の使用を禁じた事例を指すようです。下は、たぶん山川出版のサイト。
http://www.y-history.net/appendix/wh0804-017.html
http://www.y-history.net/appendix/wh0201-027_1.html
ムガル時代に生まれたウルドゥー語から、アラビア語やペルシア語の語彙を除いて、イギリス植民地時代に作られた「人工語」が「ヒンディー語」である。だから、「ヒンディー語からウルドゥー語が生まれた」のではなく、「ウルドゥー語をもとにヒンディー語を作った」と言う方が正しい。
ので、映画で、ビクトリア女王晩年にインドの標準語として、ヒンディーでなくウルドゥーを教えたムスリムインディアン従者が、これがホントのインドの言葉デスヨ~と言っていたのは、ある意味正しかったと。ただし彼は、インドのウラマーが大英帝国女王殺害のファトワを出していたなどの状況下で臆面もなく自身がムスリムであることを隠して女王に接近したので、彼女の逆鱗に触れ、追放されます。
stantsiya-iriya.hatenablog.com
1998
『ブーションのとある日』ハッサン・アジズル・ホク
"ভূষণের একদিন" হাসান আজিজুল হক
"Bhushaner ek din" by Hasan Azizul Huq
題名の「エーク」は「1」で、「とある日」と訳してますが、ワンデイということなんだろうと。1971年3月25日深夜パキスタン軍作戦開始、同年12月16日に終結するバングラディシュ独立戦争が勃発した、その翌月、四月のお話。
また、世界史で習うザミンダールがベンガルで「ジョミダル」という言い方になるのがなんしか楽しかったです。ベンガルの小説を読んでて、知った単語がズレた発音のカタカナになって出て来るのが、なんとも愉快。
ベイマン(不信心者)マラウル(ヒンドゥー教徒への罵倒語)カフェル(異教徒)ということばが兵士たちの口から出て、ほかの単語は分からないけれどそれだけ聞き取れたという場面があります(頁97)こうした単語はウルドゥーもベンガルも共通ということでしょうか。別の小説なんですが、やっぱりベンガルでもダコイトはダコイトなんですよね。パキスタンからビルマまで、強盗団はなべてダコイト。カフェルは、言語を変えるとクーフィールとかになるのかなと思いました。
1972
『レインコート』アクタルッジャマン・イリアス
"রেইনকোট" আখতারুজ্জামান ইলিয়াস
"Reinkot" by Akhteruzzaman (Suraiya) Elias
南インドの粉もん料理、コッツは、コツコツ麺を切る音からコッツと呼ばれるようになった、と、ウソのような説明をされていますが、この小説のタイトルも英語の"Raincoat"でなく、ベンガル語音転記の"Reinkot"で、「なんじゃそりゃあ」と思いました。
独立戦争終局、11月がバングラディシュの晩秋か知りませんが(夏は四月らしい)長雨の中、拷問される大学教員の話。頁101「計画は人にあり」(決済は神にありと続く決まり文句)が面白いと思って、てっきりイスラム教のことわざかと思って検索したのですが、あにはからんや英語でした。
「計画は人にあり、決裁は神にあり」の英語・英語例文・英語表現 - Weblio和英辞書
大学事務方の会話場面が多く、アカデミアはおかみの通達に弱いところですので、ウルドゥー語会話がかなりあって、ウルドゥー語はカタカナで書いています。原文が、ウルドゥーの部分だけアラビア文字で書いてたのか、音だけベンガル文字で書いてたのか、気になります。たいしたカースト?でもないのに、デリー等でウルドゥーを身に着けていたというだけで腰ぎんちゃく的に出世する人物が出てきて、世の中必ずそうなりますねと思いました。
頁112、この部分に限らず、あっちこっちの小説にホメオパシー療法という名称が出て来るので、インドでは盛んだったのだろうかと思いました。
厚生労働省eJIM | ホメオパシー | 各種施術・療法 | 一般の方へ | 「統合医療」情報発信サイト
ショヒド・ミナルと呼ばれる、1952年国語化運動で犠牲になった若者を象徴したモニュメントが自然発生的に全国各地に建てられているのを、全撤去じゃーと校長が進言する場面があり(頁105)検索すると、池袋にもあるそうなので、今度見てみようと思います。
なんでも、バングラディシュ政府寄贈の逸品だとか。
Shaheed Minar, Dhaka - Wikipedia
頁113に「バロチュ連隊」とあるのは、「バローチ連隊」で、バローチスターンから来たムジャヒディーンたちなのだろうかと思いました。ペシャワール会。ゲリラの武器にスタンガンがあり、スタンガン殺傷能力あったっけとか、これで銃に太刀打ち出来るのかとか思いました。私も使われそうになった牛追い用だろうか。
頁125
(略)「雨こそチャンスだ」。たしか二回も言っていた。あの意味はなんだったんだろう? 教員室でだれかがある日、また別の日もこそこそと話していた。「ベンガルに雨期があるということをやつらは知らない。ロシアには冬将軍、我々には雨期将軍だ」。
1995
第三部 女・妻・母 পার্ট 3 নারী/স্ত্রী/মা Part 3 Woman/Wife/Mother
このパートがひどくて、入れなければならないじゅうようなパートとは私も思うのですが、それにしても、アラカン山脈の向こう側は、こんなに文章記述上の制約が多いのかと、暗澹となるくらい女性問題に関して、行間嫁ばかりです。メタファーも何も、さっぱりさっぱり分からなかったです。なぜそんなに書けない(社会からのプレッシャーで)のだろう。
『母』ハッサン・アジズル・ホク
"জানান" হাসান আজিজুল হক (?)
"Janani" by Hasan Azizul Huq
ジャナニとアルファベットを打ち込むと、「お知らせ」を意味する単語が出て、母やマザーをベンガル語に訳すと、「マー」(北京語か!)になります。もしズバリの単語があれば、著者のベンガル語版ウィキペディアにヒットするはずなので、ヒットしない現状、原題のベンガル語表記はグレーです。
頁136の「色褪せた手ぬぐい(と書いてガムチャとルビを振る」インドに行ったことのない私でも、ガムチャという言葉を聞くと、何故か郷愁を覚えてしまう。ガムチャ、いいですよね。カンボジアのクロマーも持ってるので、ガムチャ、買おうかな。あの汚い布で(失礼)やめてーと心の中で悲鳴をあげるのをよそに机やらなにやら拭いてくれるあのおしつけがましいやさしさ紙芝居が今、現代社会に必要なのかも(違います)
これは、押しかけお手伝いの小娘が、なぜかどんどん妊娠して、生んだ子がどこに行くのかも分からず、また妊娠して、を繰り返すので(そもそも雇った後で子持ちと判明し、じゃークイットしよっか、いやいやそれでは人情ガーの知識階級雇用主)最後はほってしまい、同じ村なので、その後も彼女を見かけるが、ものっそボロボロになってそのへんの木陰に横たわるようになり、たぶんのたれじんだんだろうなという話。
誰が妊娠させてるのかも分からないし、生まれた子どもがどこに行くのかも分からない。せめて、なぜ避妊しないのかとか、DV絡み、性暴力絡みなのかとか、一度膝を詰めて、悪いようにはしないから話しておくんな、て、なる展開にぜんぜんならないんですね。これが非常に最悪。まったく事情に立ち入らず、結局解雇して彼女から輝きが急速に失せていくのを、傍観するだけ。
雇い主の主人公が彼女をやってるわけでないことは、まあ話を読んで分かるんですが、それにしても、アラカン山脈の向こう側は、こっちよりあけすけにグイグイ人の個人事情に食い込んでくるイメージがあるので、ここまでバリアを張る展開に、いきどおってしまいます。なんでわけを聞いて、相談に乗らないんだ。お手伝いの子はまだ未成年ですよ。
1986
『クンクムの幸福』ハッサン・アジズル・ホク
"সুখের সন্ধানে" হাসান আজিজুল হক (?)
"Sukher sandhane" by Hasan Azizul Huq
イヤングセックスレス夫婦の話。クンクムは主人公女性の名前。ふたりがセックルレスで、ハズのラジブが花街に通ってることは分かるのですが、何故かが具体的に全く書かれないので、どう推測しろってんだ、と困惑してしまう話。からだの相性が悪いのか、性病でも移されたのか、何が何やら。最後は少女時代に帰りてー、的センチメントに昇華して終わるのですが、気になる点は残ったまま。
この話に限らず、非常時や女性の食事ということで、冷たいご飯をトルカリというカレー的お菜などで流し込む食事が多く、暑い地方なので、温めなおさないで当たらないかしらと思ったり、温めなおす燃料代も問題だワンと思ったりしました。
1967
『モティジャンの娘たち』セリナ・フセイン
"সখিনার চন্দ্রকলা" সেলিনা হোসেন
"Motijaner Meyera" by Selina Hossain
嫁姑バトル。宿六はガンジャ狂い。セックスレスのようにも読めるのですが、いちおうのアリバイ性交渉はしてないと、このワイフは燃やされてしまいそうです。それくらいの戦い。高野秀行のソマリランドの本で読むカートは、セックス欲をなくしてしまうそうで、それなので子造りしたくなったら、カートをやめて酒を飲むんだそうですが、大麻はどうだったでしょうか。
バングラディシュは海に面した国なのに、魚類といえば川魚で、海の魚は食べないそうです。ムスリムなのでえらとうろこのないものは食べないから、タニシもカエルも食べない(たぶん。異教徒の村に行けば食べれるとも思います)頁155ほかに、ビリという安煙草が出てきますが、検索するとビディが出ます。
1993
第四部 記憶・夢・歴史 পর্ব 4 স্মৃতি, স্বপ্ন, ইতিহাস Part 4 Memories, Dreams, History
『名もなく家もなく』ハッサン・アジズル・ホク
”নামহীন গোত্রহীন” হাসান আজিজুল হক
"Namhin gotrahin" by Hasan Azizul Huq
つげ義春が独立戦争中のバングラディシュの小都市を旅してると思ってください。
1973
『地獄で温かい』アクタルッジャマン・イリアス
"দোজখের ওম" আখতারুজ্জামান ইলিয়াস
"Dojakher Om" by Akhteruzzaman (Suraiya) Elias
解説によると、「温かい」の原語"om" "ওম" は、ただの温かさではなく、冬場で火に当たったり、毛布の中でぬくぬくとしているときの心地よさを想起させる言葉だそうです。超熱帯のバングラディシュにそういう意味のことばがあるのが不思議。ヒマラヤの方に行くときに使ったりする言葉でしょうか。この話も寝たきり老人の話。ただし、冒頭作と異なり、寝たきり老人本人の問わず語りです。アッラーが、なぜお迎えに来ないのか、理由をあれやこれや推量する日々から、最後にガッツ。
頁226の注釈に、「ダッカの住人は分離独立時に流入したビハール人に対して複雑な感情をもっている。また一九七一年の独立戦争時には概してビハール人は独立反対に回った。つまり駐留していたパキスタン人と通じているとみなされがちだった」とあり、ビハール人て? と検索しましたが、インド全体でもけっこうつらい立ち位置の人たちでした。
頁227にカンドゥポッティというかつての売春窟の地名が出たので"kandupotti Dhaka"で検索したら、女性センター的なものがヒットしました。
頁229で、ムンキルとニクルという、死後死者を試す天使が出て、ハーウィヤ地獄というイスラム教の地獄のひとつが出ます。名前だけですが。
頁234に出て来る「フィルニ」というデザートは食べたことないですが、南インドの同種の料理「パヤサム」は食べたことあります。
レジャラという料理はうまいことヒットせず。ビリヤニとプラオが続くという描写に、コンソメピラフとキムチチャーハンが続くようなものかと思いました。
1989
全体を通してというか、私はこの日記を書き出してから、アザーンはアラビア語圏ではアザーンと呼ばないような記述の本を読んだ気がしてて、本書ではアザーンとちゃんと書いてありますので、全東洋街道ではアザーンで間違いナシ、と鼻息荒くしましたが、念のため検索しますと、この日記で一度もアザーン以外の読み方書いてないことに気づきました。また模倣記憶か。
モウロビという、村のイスラム哲学者みたいな人、寺子屋でもやってるようなタイプのことを指す単語が出て、検索しましたが、辞書サイト的なところの説明は出ませんでした。
バングラデシュにおけるアイデンティティー 広島修大論集 第38巻 第2号(人文)
https://core.ac.uk/download/pdf/236178056.pdf#page=11
マドラサの教師に対する人々の態度について、ある論説は次のように厳しい指摘を行っている。
「マドラサのモウロビ(イスラーム教について知識のある人のことで、この場合はマドラサの教師を指す)氏たちは、以前はモロビ・シャヘブ(モウロビ氏)と呼ばれたものだが、今ではフズール(特別の権威を持ったお方,閣下にも相当する敬称)と呼ばれている。(中略)。こうしてフズール,フズールと呼ぶことで,我々はフズールたちを全能者,もしくは優越する者としている」(17)
この結果、マドラサの中においては、かなり偏った主張であっても、教師がそれを主張する限りそのまま認められてしまう傾向にある。特にムスリムとヒンドゥーのコミュナルな関係に関連した事柄では,そうした傾向が顕著なようであり、穏健派の芽には困ったことだとしてニュースに取り上げられる場合もある。
モウロビという単語を調べていたら、京大東南アジア研究所の紀要雑誌?で、ロヒンギャを扱っているのが出て、読んでみたら、ロヒンギャとバングラディシュの人口流動性の高さとか、親族の多さとか、男性が女性を守る組織的な移動(災害時のバングラディシュ人の伝統的な対応法と同じ)等々、まーやっぱりアラカン山脈の分水嶺を越えて定住ってのは、そんな歴史があるわけじゃないやね、との直感を補強する内容でした。ロヒンギャという言葉を広めたのは欧米の人権NGOのくだりで、仏教徒を悪者にしたはいいけれど、ミャンマーとの安定した関係を崩したくないバングラディシュ政府の頭越しに、パキスタンやアフガニスタンの原理主義組織の支援を受けてミャンマー政府軍を襲撃した、イスラム原理主義により近いロヒンギャについてと、その後のミャンマーの軍政府全権掌握の過程で、何も旨みのあることが出来なくなったので逃亡したかに見える彼らを軽蔑するとともに、彼らのようなヤカラが突然大々的に何か人権キャンペーンを張っても、よくよく観察することが大切だと改めて思いました。
ムスリム系移民・難民と 東南アジアの民族間関係 - CIRAS Discussion paper No.79 2018年3月
https://ciras.cseas.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/09/CIRAS_DP79.pdf#page=24
以上